大震災「貼り紙」コレクション

私はここに居ます。

今であればスマートフォンや携帯電話、メールやSNSなどを使って安否情報をやりとりできるが、阪神・淡路大震災が起こった20年前はそのようなツールはほとんどなかった。携帯電話は存在していたが、今ほど普及はしておらず、また基地局が被災して使えなかったという。固定電話も断線で使い物にならなかった。震災直後は避難所に設置された臨時電話だけが連絡手段であった。

そんな状況下でコミュニケーションツールとなったのが「貼り紙」である。単なる安否確認や倒壊注意の周知だけではなく、学校が生徒に向けて、安否を学校に連絡するものであったり、外国からの被災状況の照会であったり、電話一本で済むことも紙に書いて街中に貼り出されていった。

今回は震災直後(1995年1月26日~31日)に私が撮影した貼り紙のコレクションを一気に紹介したい。本稿閲覧のBGMとしてYouTube再生リスト「しあわせ運べるように」をお勧めする。

さくら銀行三宮南口支店

建物が崩壊したそごう三宮店の1階にあった「さくら銀行三宮南口支店」の貼り紙。「当面の間休業」の言葉から、当時の混乱ぶりがうかがえる。

身元引き受け

きれいな食品サンプルに反比例して、営業できないもどかしさ。田崎真珠(現・TASAKI)が営業していたうどん店「あこや亭」。現在は閉店している。

風見鶏の館

北野町の異人館も軒並み崩壊。神戸のシンボルでもある「風見鶏の館」(国の重要文化財)は屋根上の煙突や屋内の壁面などが崩壊した。貼り紙では「当分の間休館」となっているが、復旧工事後、一般公開されたのは2年2か月後の1997年3月29日のことである。

オブジェ

おしゃれなオブジェも、頭上注意を呼びかけ。

感謝

全員無事の連絡。隣には伝言板も。

外国からの安否確認

中国から在日中国人に対して安否確認が日本赤十字社に入ったが、このような公的なものでも手書きの貼り紙で周知が当たり前であった。(神戸市役所1階ロビーの掲示板)

外国人への周知事項

国際都市神戸らしい、各国語の救援の貼り紙。日本語のものにはふりがなも付けられていた。

こうべ地震災害対策広報

神戸市災害対策本部の広報紙。行政からの情報が掲載され、ほぼ毎日発行されていた。避難所以外に避難している人のことも考慮して、選挙のポスターのように電柱や信号機の柱などにも貼られた。

給料支払いの周知

従業員を気遣うマスター。

使用禁止のエレベーター

使用禁止のエレベーターの扉も掲示板である。この建物の住人に対する連絡を請う貼り紙が貼られている。

地下鉄三宮駅の貼り紙

地下鉄三宮駅の出入口。上から特定個人からの電話連絡を求めるもの。英語の貼り紙。赤塚山高校が在校生に対して安否連絡をするよう求める貼り紙。ちなみに赤塚山高校は三宮から遠く、東灘区の六甲山の麓にあった。赤塚山高校は震災後、六甲アイランド高校に統合された。

阪急三宮駅

阪急三宮駅が震災で崩壊。阪急電車も不通となり、開通まで代替バスが運行された。その「阪急三宮駅」のバス停がこれ。阪急三宮駅(現在の神戸三宮駅)は今も昔も阪急の神戸側のターミナルであるが、震災後は、こんな粗末な停留所が「阪急三宮駅」だった。

応急危険度判定結果 危険

応急危険度判定結果 要注意

応急危険度判定結果 調査済

震災直後に被災地で行われた「応急危険度判定結果」の貼り紙。全国から集まった建築士が1件1件を調査し「危険」「要注意」「調査済」を判定し、この貼り紙を貼り付ける。「危険」は全壊状態。「要注意」は半壊状態である。ちなみにこの写真の「危険」には「隣接アパートが階層部分まで倒壊する恐れがあります。又、コンクリート塀も倒壊の危険あり」と書かれている。

身元引き受け

家を失った人向けに、一時的に住居の世話をする「身元引き受け」の貼り紙もよく見かけた。

ボランティア募集

ボランティアの募集。

長田区への道

被害が比較的少なかった元町商店街で、ボランティア向けの長田区への案内図。普段、電車では10分程度の距離だが「徒歩」というところが、当時の神戸の状況を物語っている。

海文堂書店

今はなき元町の海文堂書店に貼り出された震災関連の新聞記事と死者の名簿。

引っ越し連絡

震災から半年後、神戸市長田区にて。半年経ってもまだ更地であるが、この地に住んでいた人と思われる方の移転先を知らせる立て看板。

※本稿の写真の多くは拙著『阪神大震災・神戸からの報告書』(1995年3月、データハウス刊)135ページ~142ページに掲載していたものです。

おしらせ
Google+にて、1995年1月に撮影した阪神・淡路大震災関連の写真を大量に一般公開しています。興味がありましたらGoogle+へもお立ち寄りください。