ふるさと切手博物館
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公開日:2001年1月1日
第21回展示■21世紀。だから温故知新

佐賀県「吉野ヶ里遺跡」(1991年版)

吉野ヶ里遺跡  時代は岩宿遺跡より8000年以上もタイムスリップします。
 日本の歴史上、最大の謎とされるのが「邪馬台国(やまたいこく)」の位置です。
 邪馬台国とは3世紀に記された中国の歴史書『魏志倭人伝』に出てくる、日本列島にあったとされる国のひとつです。魏志倭人伝によると、当時の日本列島には中国と交流がある国が30か国あり、このうち、邪馬台国を含む22か国を「倭国(わこく)」と呼び、「倭国」には邪馬台国に住む卑弥呼(ひみこ)が女王として君臨していました(注・魏志倭人伝は卑弥呼の死後に執筆されている)。
 卑弥呼がいた弥生時代の遺跡は奈良県を中心とする近畿地方で多く発掘されていましたが、1989年2月、佐賀県神埼(かんざき)町の工業団地建設予定地で発見された吉野ヶ里遺跡は、これまで近畿地方で見つかった遺跡よりも、はるかに大規模な遺跡であることがわかりました。具体的には、弥生時代の一般的な住居である竪穴式住居跡が大量に発掘され、さらに楼観(たかどの=物見やぐら)の跡も見つかっています。
 魏志倭人伝によると邪馬台国には7万戸の家があり、また、女王が住んでいた建物の周囲には楼観があったと記されています。
 1998年には古代中国の遺跡で発掘された占い用の祭壇と同じものが発掘されました。これは魏志倭人伝で卑弥呼が呪術の力で国を治めたとの記述を裏付ける発見として注目されています。
 1999年11月には80棟以上の高床式倉庫跡が発掘されています。これも魏志倭人伝に記された貢ぎ物を収めるための倉庫ではないかと考えられています。
 しかし、これだけの物証があるにも関わらず、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の中心地であると断言することはできません。魏志倭人伝には邪馬台国への道のりが書かれているのですが、これによると吉野ヶ里遺跡がある位置に邪馬台国があったとは考えられにくいのです。

●この切手のデータ
意匠=夕日に映える楼観(たかどの)と竪穴式住居
発売日=1991年4月12日 発売地域=九州
原画作者=三上浩司 発行枚数=890万枚


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