気まぐれ歳時記2000年10月1日
 

『智恵子抄』〜純愛に生きた光太郎と智恵子

 明治から昭和にかけて、彫刻家、詩人、歌人など、幅広い分野で活躍していた芸術家・高村光太郎(1883〜1956)の代表的な詩集に『智恵子抄(ちえこしょう)』があります。
 その『智恵子抄』の主人公でもあり、光太郎の最愛の妻である高村智恵子が亡くなったのが1938年10月5日のことでした。
 高村智恵子は1886年、福島県の大きな造り酒屋の長女として生まれ「お嬢様」として育てられましたが、当時の女性としては珍しく、東京の大学へ進学。大学卒業後は実家に帰らず、画家として創作活動を行っていました。
 そんなときに出会ったのが、フランス留学から帰国したばかりの光太郎でした。
 デートで智恵子は光太郎と一緒に絵を描いたり、絵画や彫刻について語り合ったりしたそうです。そして、1914年12月、2人は友達の前で結婚宣言をするものの、「夫婦」の枠にはとらわれず、お互いの芸術性を高めるため、入籍はしませんでした。
 ところが結婚宣言後、智恵子に次々と不幸が襲いかかります。
 光太郎のすすめで、文部省美術展覧会へ絵を出品するのですが、あっけなく落選。小学校から大学まで常にトップクラスの成績をほこっていた智恵子にとって、初めて味わう挫折でした。さらに実家の造り酒屋が破産し、一家離散の知らせが届きます。度重なるショックで智恵子は精神分裂症に陥りました。
 光太郎は仕事もそっちのけで、気力を失った智恵子を湯治に連れて行ったり、デートの思い出の地を訪ね歩いたりして、智恵子の心をいやそうとしました。道中、智恵子が生まれた町の役場へ行き、正式に入籍の手続きも済ませています。智恵子が47歳のことでした。
 しかし、智恵子の病状は悪くなる一方で、ついには肺結核をも患い入院。最期は智恵子の好物だったレモンを手に「トパアズ色の香りの中(智恵子抄「レモン哀歌」より引用)」で他界しました。
 光太郎にとって、最愛の人を失ったショックは大きく、智恵子の死後、共に生きてきた思い出を一心に書きつづって完成させたのが、この『智恵子抄』です。『智恵子抄』は恋愛が多様化した現代でも、多くの人に愛読されています。

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