阪神大震災における我が家のライフライン復旧状況
2004年10月29日
テレビのニュースでは新潟中越地震におけるライフラインの復旧情報が出てくるようになった。このニュースを見ていて、やはり阪神・淡路大震災被災当時のことを思い出してしまった。当時の我が家におけるライフライン復旧情報を備忘録としてまとめてみた。これについては拙著「阪神大震災・神戸からの報告書」(データハウス刊)や当時のメモなどから抜き出している。
- 地震発生:1995年1月17日午前 5時46分
- 当然、部屋の中は雑然としている
- 被災場所:神戸市中央区国香通、震度7エリア
- 自宅は当初半壊状態、半年後に全壊判定となる
- ポートアイランドの公団住宅に引っ越すまでは自宅で生活する
- 電話
- 地震直後、部屋を簡単に片づけてから、父が親戚に無事を知らせる電話をかける
- 当時、我が家はダイヤル式の黒電話であり、停電時でも電話回線が生きていれば使えた
- ただし、午前7時ごろには電話はつながらなくなった
- 電気
- 1月17日(地震当日)の正午過ぎ、瞬間的に部屋の蛍光灯が点った。ただしすぐに消える
- 同日16時20分ごろ蛍光灯が点灯、テレビで各地の被災情報を確認
- 同じ頃、電話も復旧したらしく、遠方の知人から電話がかかり始める
- ただし我が家から100mほどのところでは依然として停電状態が続き、復旧まで5日から1週間ほどかかったようだ
- 今、思うと避難所に近い場所から停電が復旧していていたように思う
- 水道
- 1月21日(地震から5日目)夕方に通水
- 当時、我が家には二宮町のクアハウスからもらっていた飲料水のくみ置きがあった。地震直後は近所の人に分けるほどの水の備蓄があったので、飲料水には困らなかった
- トイレの水は避難所となっていた近所の小学校のプールより分けてもらっていた
- ガス
- 拙著の原稿を書き終えた時点では復旧していない
- 拙著が出版された数日後に復旧した記憶があるので、3月上旬と思われる
- それまでは普段は鍋料理で使っていたカセットコンロがあったので、簡単な料理や湯沸かしは可能だった
- 風呂
- 1月25日(地震発生9日目)に神戸市各区に1か所ずつ、自衛隊の仮説浴場がオープン
- 中央区は我が家から1kmほどのところにある小野柄小学校(現在の中央消防署があった場所)に設置
- ただし奇数日は女性、偶数日が男性の入浴日となっていたため、私が風呂に入ったのは26日である
- 鉄パイプとテントだけで組まれた風呂ではあったが、案内をしてくれた自衛隊の方の対応もよく、とても気持ちよかったのを覚えている
投稿者 菊地 馨 : 13:15 | コメント (0) | トラックバック(1)
大地震を予言していた『神戸新聞』
2005年1月15日
神戸から持ち込んだ阪神淡路大震災の関連資料を読み返していると、面白いものが出てきた。
それは1995年1月8日の『神戸新聞』のコピーである。そう、あの兵庫県南部地震が発生する9日前の新聞である。この記事の見出しは「京阪の断層300年も沈黙 M7級地震 近く続発か」。9日後の大地震を予言していたかのような記事である。
記事では立命館大学理工学部の見野和夫教授の研究によると、琵琶湖から大阪にかけての断層で300年以上目立った地震活動がなく、マグニチュード7クラスの地震のエネルギーを蓄えている可能性が高いと指摘、そして見野教授は「関西は地震に対する意識が薄く、防災体制が不十分」と警告している。実際、兵庫県南部地震を引き起こした断層は、この記事で指摘された断層帯ではなかったが、何人の人がこの記事に気づいていただろうか。
ちなみに、なぜ私がこの記事に気づいたのかというと、震災にあった後、家の片づけをしていたときに、たまたま、この記事を見つけたのだ。
同じようにして見つけた記事にこんな記事もあった。1995年1月17日朝刊(地震直前に配達された新聞)
神戸で震度1 十六日午後六時三十二分ごろ、神戸で震度1(微震)の地震があった。大阪管区気象台によると、震源地は大阪湾。震源の深さは約二〇キロ。
今では、この地震が「前震」とされているが、残念ながら私は気づかなかった。が、母は気づいていたようだ。
投稿者 菊地 馨 : 23:05 | コメント (0) | トラックバック(1)
ふるさとは遠きにありて…
2007年1月17日
1995年1月17日午前5時46分、私は神戸市中央区の自宅で激しい揺れと共に目が覚めた。そして寝ていた私にテレビが襲いかかってきた。揺れが収まり、当時から枕元に置いてあった懐中電灯で部屋中を照らし出すと何もかもが転倒し、足の踏み場もなかったことを鮮明に覚えている。
震災から12年も経つと全国ネットのニュースでも震災を取り上げる機会がめっきり少なくなった。朝日新聞のサイトを見ると“阪神大震災12年 「震災を知らない市民」神戸市は3割”という記事が出ている。「震災はここまで風化してしまったのか」と思い記事を読むと、震災があった95年以降、神戸市に転入した人と、生まれてきた子供の人数が神戸市の人口の3割に達するらしい。今朝の『沖縄タイムス』によると神戸市の人口は今年1月の時点で153万人を超えたという。ちなみに沖縄県の人口よりも多い。この3割となると40~50万人の神戸市民は震災当時の神戸を知らないことになる。この数は今住んでいる那覇市の人口よりも多い。
※神戸市の統計によると震災直前(95年1月1日現在)の人口は152万人だった。単純に比較すると12年で1万人程度しか人口が増えていないことになる。また震災最大の被災地である神戸市長田区では今も人口の減少が続いている
震災の年に生まれた子供は今年12歳になる。彼らが春には中学生になっていることを考えると、かなりの年月が経過したことを思い知らされる。私にとってはつい最近の出来事のように思うのだが…。今、神戸の子供達がどのように震災を学んでいるのかわからないが、震災で学んだことを次代の教訓として、つなげていってほしいと願う。ところで、
投稿者 菊地 馨 : 15:00 | コメント (2) | トラックバック(0)
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