連載小説1998年5月1日
 明日の大地へ〜第15節、第16節

◆目次◆

15・もう一人のサトコ

16・気持ちの居所

(全33節)


15・もう一人のサトコ

 タカシは一睡もせずに国道を走っていた。それも猛スピードで飛ばしていれば恰好がつくが、果てしなく続く大渋滞に、川のせせらぎのように走っていたのだ。幾度となく睡魔が襲ってくるが、サトコをなんとかして神戸の病院に届けなければならない。
 すでに夜も明けている。やっと兵庫県内に入ったところだ。普段なら、昨日のうちに到着してもいいはずだ。
「あれっ。私、どうしてここに」
 昨夜から、ずっと気を失っていたサトコの顔がバックミラーに映った。
「目ぇ覚めたか」
「昨日、私、タカシさんの実家にいたわよねぇ」
「サトコは何も考えんでええ」
「でも…私たち、どこに行こうとしているの?」
「神戸や。今、尼崎を走ってる…」
 二人の会話に間ができた。タカシは、この間が怖かった。どのようにサトコを慰めればいいのか検討もつかないからだ。
「…タカシさん。今日は姫路へ行くんでしょ…」
 サトコは自ら沈黙を破った。昨夜のショックを隠そうとしていたのが見え見えだったが、その気持ちを踏み躙るわけにもいかないので、適当にサトコの会話に会わすことにした。
「ああ、そうやなぁ」
 また、重苦しい沈黙が車内を包む。
「たくさん、車が止まっているわね」
 渋滞で動きたくても動けない車を見て、そう、つぶやいた。サトコの会話に合わせるつもりだったタカシも、これには、どう返事をしていいか、わからない。
 助手席に目をやると、大きな袋が座っていた。
「そうや。昨日から、何も食べてなかったやろ」
 国道を走っていても、ほとんど動くことはなかったので、ずっと握り締めていたハンドルから両手を離し、袋の中からパンとジュースを探しだした。
 食糧を渡すとき、タカシの手が少しだけサトコの手に触れた。その手から生気は、ほとんど感じられない。
「私、これから、どうすればいいの…」
 びっくりしたタカシはジュースをむせながら一気に飲みほした。
「どうすればって」
「だって、父も母も弟もいなくなったんだし、帰る家もないのよ」
 こうして喋っている間も、サトコは窓の外を見ていたが、タカシは、その言葉が妙に胸にチクチクした。その感覚はジュースでむせたものではない。
「家のことなら心配せんでもええ。オレのマンションに来ればええやん」
 これまでタカシは、サトコと付き合っていたが、結婚までは考えていなかった。しかし、現実のこの密室で、タカシの心の中から「今、サトコを守ってやれるのは、オレしか、おらんのや」というような熱いものが込み上げていた。マグマのような熱いものが…。
「でも…」
 透き通るように色白だったサトコの頬が少し赤くなったように見えた。
 そんなところに「神戸行き通行規制」と書かれた看板の横に立っていた警官が近づいてきて、ノックをしてきた。
 窓を開けると、その警官は「用のない車は引き返してくれ」と怒鳴ってくるではないか。
 サトコのことを知らないとはいえ、無神経な警官の態度に、タカシの緊張の糸は切れた。
「あんなぁ。彼女の家族が死んだんや。だから通してくれ。彼女は家族の、たった一人の生存者なんやから…」
 警官は後部座席でボンヤリとしながら、パンを頬張るサトコの表情に目を移した。
「……悪かった。気をつけて行ってくれ」
 警官は持っていた誘導灯で、タカシの車を神戸方面の道へ導いた。 規制のおかげで、少しはスピードも出せるようになったが、すでに時計は九時半を指している。
「今日は出勤できんなぁ。オレ、クビかなぁ」
 タカシは声に出さなかったが、すっかり諦めの境地に達した。
「なぁ、サトコ。家、見ていくか」
 サトコは小さくうなづいた
 サトコの家は下町の風情が残る街の路地裏にあった。ときどき、ドライブに誘うため、よく迎えにきたので道は知っているつもりだった。
 だが、今日は、目印になっていた看板や建物は、ほとんど原型をとどめていなかった。まともに建っている家なども見当らない。この辺りは火事でやられたみたいだ。ところどころ白い煙を上げている瓦礫を見るが、まるで戦争映画のセットに迷い込んだみたいな錯覚にとらわれる。道にも焼け焦げた木の板やら赤く変色した建材が転がっており、舗装道路でも砂利道を走っているような感覚が手や足に伝わってきた。
 あまり人もいない。時折、焼け跡で涙する人を何人か目撃する程度である。
 この辺りは、ガス爆発の危険があるため、今朝から避難勧告が出されている地域でもあった。
 そして、車はもともとサトコの家が建っていたであろう場所に着いた。
「ここやと思うんやけど」
 タカシがそう言った途端、サトコはドアを開けて外へ出た。
 焼け跡を踏みしめながら五、六歩、歩いて、しゃがみこんだ。
 しばらく、その様子を車の中から傍観していたタカシも、しゃがみこんだまま動かないサトコが心配になって、車から外へ飛び出した。
「大丈夫か?」
 サトコの頬に大粒の涙が流れ落ちる。その涙は焦土と化したサトコの実家に吸い込まれた。
「お母さん、お父さん、ミツル…」
 タカシはズボンのポケットからハンカチを取り出し、サトコの目の前へ突き出した。
 サトコは、びっくりして後を振り返ると、タカシの胸を目掛けて、飛び込んできた。
「タカシさん…」
 声は震えている。車の中と違って、時間は早く流れていく。
「病院まで連れてって…」
「もう、ええか。またここに来たかったら、いつでも連れてくるで」
 助手席にあったコンビニエンスストアの袋を後部座席へ放り投げ、そこにサトコを座らせた。
「東灘病院って知ってるか。西岡本っていう所にあるそうやけど」
 昨夜、京都の実家でメモした紙切れをサトコに見せた。
 サトコはハンカチで止め所なく出てくる涙を拭いながら、小さくうなずいた。
 本当は、そこまで案内をしてほしかったのだが、今の状態でサトコに案内させるのは、酷なような気がする。だが、サトコは気丈に案内してくれた。涙声の指示を聞き取りながら、二十分ほどでその病院にたどりつくことができた。
 病院ということもあって、たくさんの怪我人でごったがえしている。サトコはまたしても自分でドアをあけて吸い込まれるように病院の中へ消えていった。タカシも凸凹になった路肩へ車を寄せ、すぐにサトコを追い掛けた。
 受付には、すでに二、三人が列を作っている。
「この人らも身内が亡くなったんやろか」と思いつつ、サトコの後にタカシも並んだ。
 そしてサトコの番が回ってきた。
「あの松浦ですが、私の家族は…」
 涙声で受付の女の人に声をかけた。
「失礼ですが、どちらの松浦さんですか?」
「U町です」
「ちょっと、そのまま待っていてください」
 女は冷静に返事をすると、後にいる白衣の男と何かを話しはじめた。
 しばらくして、その男が二人を遺体安置所へ案内してくれた。
 途中、十数人の人びとが、涙をすすりながら、オレたちとすれ違った。
「松浦ヒトシさんとタカコさんはあなたのご両親ですか?」
 白衣の男は、唐突に、サトコに質問を投げかけた。
「はい」
「松浦ミツルさんはあなたと、どういう関係です?」
「弟です」
 白衣の男はタカシを見た。
「あなたは、何です?」
「何って…オ、オレはサトコの婚約者です」
 タカシは自分の言った台詞に自分自身が驚いた。職域は違っても同じデパートに勤めているのだから「同僚」と言ってもよかったのに…。
「タカシさん…」
 サトコも同様だった。
 白衣の男は、二人の驚きをよそに事務的に喋り続けた。
「ご遺体は、この部屋に安置していますが、ご遺体を発見した場所だけで松浦ヒトシさん、タカコさん、ミツルさんと断定しているので、一度、ご遺体と接見してから、断定が正しいかどうか、教えてください」
「あの、質問があるんですが…」
 タカシは、ひとつ気になっていたことを、その男に聞こうとした。 男は眼だけを動かしてタカシの顔を見た。
「昨日、ラジオでサトコの家族の死亡を知ったんですが、実はサトコの名前もラジオで放送されたんです。これは、どういうことなんでしょう」
 男は、手にしたバインダーを開いて、相変わらずの事務的口調で返した。
「ここには、そんな方のご遺体はないですねぇ。松浦さんの建物の中からは三人しか発見されていませんし…、ご遺体の発見されたU町は、夕方に近くの火事が延焼してきて、瓦礫を焼き尽くしてるんですよ。もしかすると、その火事で遺体が完全に焼失し、発見できなかったと思われて、名前だけ死者として発表した可能性がありますねぇ。それか同姓同名の別人かも知れませんよ」
 サトコも、この会話が聞こえていたはずだが、何の反応も示さなかった。タカシも彼の推測を、どう受けとめていいのか、わからなかった。
 男は二人を薄暗い部屋に招き入れた。部屋には十数個の棺が並べられ、その上に白い菊の花が一輪ずつ手向けられていた。棺の横にはロウソクと牛乳ビンで応急的に作った線香立てが寂しく立っている。
 男の案内で嗚咽する遺族の後を通り過ぎ、部屋の端に安置された棺の前に立たされた。
「右からヒトシさん、タカコさん、ミツルさんと思われるご遺体です」
 そう言うと男は部屋の片隅へ下がった。
「サトコ…」
 タカシはサトコの背中を軽く突いた。そしてタカシも白衣の男の横に並んだ。
 サトコは一番右の棺を開けた。中には赤黒くただれた男の顔が見える。
「お父さん。お父さぁん。私、私…何もしてあげられなくてゴメンなさい…」
 サトコは、大声で泣き崩れた。
「もし大地震があると、わかれば、サトコの家族を連れて神戸を脱出できたのに…」
 泣き叫ぶサトコを見ながら、タカシはそう思った。
 左隣が母の棺、さらに左隣は弟の棺である。サトコだけが泣きじゃくっているが、タカシの心の中で時間は止まっていた。長く、この部屋にいたようにも思えるし、短かったようにも思える。その虚無の時間、サトコは三人の顔を見つめ、それぞれの思い出を涙ながらに語った。
 白衣の男は、サトコが三つの棺を一通り見て、落ち着いた頃合を見計らって、また事務的に話しかけてきた。
「三人とも、あなたのご家族に間違いないですね」
 サトコは振り返って「はい」とうなづいた。顔は涙でびしょ濡れだ。
「わかりました。もう少し気持ちが落ち着いたら、火葬の手続きなどで、お話ししたいことがありますから、もう一度、受付に来てください」
 そう言い残すと、男は部屋を出てしまった。
 タカシは棺ごとに置かれていた線香を三回、捧げた。遺体の顔も、しっかりと見た。その間、サトコは床にペタンと崩れ落ちるように座り込み、タカシの姿を目で追った。
 無の時間が長く流れる。タカシの捧げた線香の短さだけが、その時間を教えてくれる。
 線香が三分の一の長さになった時、サトコは立ち上がり、何も言わずにタカシの手を握って、部屋を出た。
 受付で、事務的な手続きや火葬のことについての話を聞かされると、三通の死亡証明書をもらった。
 病院も次から次へと死体が担ぎこまれるので、どうしても事務的な対応になってしまうのだろう。最後まで病院の応対は冷たく感じられた。
 時間はすでに正午前。課長命令とはいえ今から姫路へは行けない。 消沈の二人は、再び車に乗り、タカシのマンションへ向かった。

16・気持ちの居所

倒壊した三宮神社
 勝手口の鍵を開けようとすると、すでに鍵が開いていた。
 そういえば、昨日、鍵をかけなかったのかな…と思いながら家に入ると、中ではオカンが掃除しているではないか。
「何してるんや」
 オカンは振り返った。その顔は元気そうだった。二日ぶりに顔を見るのだが、その間に、いろいろあったので、何年も会っていないような感覚になる。
「掃除や。昨日は、マサルはどこで寝てたんや」
 その口調も、普段のままである。
「車の中や。そや、シオリを紹介するわ」
 オレの後にいたシオリを前へ押し出し、オカンに紹介した。シオリは寝癖を手で押さえながら、照れ笑いを浮かべて「こんにちは」と頭を下げた。
「ふーん。そうか。あんたがシオリさんか」
 オカンの視線はシオリをなめまわした。
「そして、この太ってるんが、オレのオカンや」
 ちょっと恥ずかしかったが、シオリにオレの母親を紹介した。
「ホンマやったら、奥でお茶でも飲んでもらいたいところなんやけど、家が無茶苦茶でなぁ。いきなりで悪いんやけど、もし、予定がないんやったら、片付けを手伝ってもらわれへんやろか」
「はい。あたしでよければ」
「おい、さっき、服が汚れるとか言うてたやないか」
「だって、あなたのお母さまに頼まれたんだから、断ったら失礼でしょ。それに、落ち着いて眠れる場所も確保しておきたいし…」
「相変わらず、チャッカリしとうなぁ。で、オレらはどこ片付けたらええんや」
「とりあえず、自分の部屋でも片付けたらどうや。それと、シオリさん、せっかくの服が汚れるから、この前掛けしとき」
 オカンは、自分のしていたエプロンをシオリに手渡した。
「お母さんも汚れるでしょ。私はいいですから…着替えもありますし…」
 珍しくシオリが遠慮している。
「ええの、ええの。お客さんに片付けをしてもらうんやから」
 と言いながら、オレに真新しい軍手を手渡した。
 上がり框には、オレたちが家にくるのを予知していたかのように、薄汚いながらも、スリッパが二足。傷ついたダイニングキッチンの床にきちんと並べられていた。
 一階の座敷は、すでに片付けられていた。ただし、タンスの上などに載っているはずの衣装ケースが、こたつの上に置かれている。昨日まで、そこには布団が敷かれ、その上で、いろいろな物体が寝相悪くしていた部屋だ。
「オヤジ。ちゃんと、オカンに姉のこと言うたんやろか…」
 昨日からずっと着ていたコートを脱ぎ、エプロンをしながら、シオリが後から追いついてくる。
「マサルの部屋はここ」
「いや。二階やねん」
 階段も昨日の朝は、剥がれた壁土が積もっていたが、すでに履き清められている。
 そして、オレの部屋。相変わらず大地震直後の状態だった。
「汚〜い」
 シオリは思わず、声を上げた。
「これは地震で、こうなったんや。普段のオレの部屋は綺麗に片付いとるんやで。見せてやりたかったなぁ」
「ホント? 普段もこんなんじゃないの」
 二人は、顔を見合わせて笑った。こんな状況で、くだらない冗談を言っている場合ではないが、自然とオレも笑っていた。
「もしかしたら、ほかのオンナの写真とかエッチなビデオとか出てきたりして…」
 シオリは畳一面に落ちている漫画の本などを束ねながら、くだらない冗談を言い続けているかと思えば、何もせずに、じっと、立っているオレに「見てないで、あなたも片付けなさいよ!あなたの部屋でしょう!」と怒鳴ってきた。まるでカカア天下の夫婦である。 「気分転換するには、掃除が一番なのよ」
 シオリは釘を刺した。オレの部屋は、本やCDやビデオや衣服などのこまごましたものばかりが散らかっていたので、比較的、短時間で片付けることができた。
「そう言えば、シオリのこと、オヤジに紹介してなかったな」
 いつのまにか、タオルを頭に被っていたシオリをつれて部屋を出た。
 オヤジは店の片付けをひとりでしていた。
「オヤジ」
「マサルか。どないしたんや。昨日はずっと彼女と車の中におったんやってなぁ」
 今日、初めてオヤジと会うのに、なぜか、オレのことを知っていた。
「うちの奴から、さっき聞いたで」
 とりあえず、シオリを紹介した。シオリは姉さんかぶりをしていたタオルをとって、軽く頭を下げた。
「はじめまして。あなたがシオリさんですか。可愛いお嬢さんやないか」
「それより、姉ちゃんのこと、オカンに話したんか」
「ああ昨日の夜、小学校の避難所で話したんや。すごい悲しみようやった」
「今、会うたら、そんな感じには見えんかったけど」
「悲しいことは体を動かしたら抑えられる…とか言うて、避難所を出て、ここの片付けを始めよったんや。ふっきれたんと違うか。ワシも、だいぶん落ちついたわ」
「そうか。オレらも何か手伝おか」
 オヤジは片付けていた手を止めた。
「ちょっと休憩しよ。みんなに話しておきたいことがあるから…」「あの、あたし、席をはずしたほうがいいかなぁ」
 シオリは、罰が悪そうである。
「いや、別に居ってもろてもかまへん。ゆっくりしといて」
 オレはオヤジの顔の変化に気がついた。昨日の大地震直後の険しい表情が、一夜明けて穏やかになった。それだけではない。昨日していた眼帯が外されている。
「あれ。眼帯どないしたん」
「ああ。病院でもらった目薬をさそうと思ってはずしたんやけど、目薬が見つからんでなぁ。たぶん、吉田君の家に忘れてきたんやろな」
「それで大丈夫なんか」
「別に痛いこともないし。眼も見えるから…。それより、あのときもやっぱり地震やったんや」
 オヤジはソファの上に無造作に置かれた新聞をオレに手渡した。
「なんや。昨日の朝刊やんか。この朝刊、地震の前に配達されたヤツやで。地震のことなんか載ってないで」
「そうやない。ワシが一昨日、ケガしたときの揺れのことや」
 手渡された新聞は予め社会面が開かれていた。
「ん。『激震再び地方に不安』。さすが神戸新聞やなぁ。昨日の大地震をその日の朝刊に載せるとは」
「何を読んどるんや。ズッと下に小さく出てるやろ」
「なんや、これは社会党分裂の話やな。紛らわしい。あんなポリシーのない政党なんか、なくなったらええんや」
…十六日午後六時三十二分ごろ、神戸で震度1(微震)の地震が あった。大阪管区気象台の観測によると、震源地は大阪湾、震源の深さは約二〇キロ。
 シオリもオレの右腕から覗き込むように、その新聞を見つめていた。
「これって、もしかして昨日の大地震の前触れじゃなかったの」
 同時にオカンが「重い」といいながら袋いっぱいの食糧を持って店に入ってきた。
 その後、オレの家族とシオリが、綺麗に整頓された座敷に集まった。

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※写真は『阪神大震災・神戸からの報告書』(データハウス刊・菊地 馨著)69頁に掲載した写真です。

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