連載小説1998年1月17日
 明日の大地へ〜第11節、第12節

◆目次◆

11・招かれる彼女

12・生と死の間

(全33節)


11・招かれる彼女

 店の前にたどり着くと、ちょっと照れ臭かった。建物にはヒビが入り、ところどころモルタルが剥がれ木の骨組みも見えているのだから…さすがのシオリも言葉を失った。
「ここがオレの家やねんけど…無茶苦茶やろ」
 二人は自転車を下りた。
 シャッターが開けっぱなしだったので、店から入ろうと思ったが、ドアには鍵がかけられていた。あいにく、このドアの鍵は持っていない。
「しゃあない、裏から入ろ」
 オレとシオリと自転車は、瓦や壁の破片を踏みしめながら細い路地を通って勝手口に向かった。
 勝手口には貼り紙が貼られていた。
「マサルへ。K小学校にいる」
 ただ、これだけしか書かれていない。いや、その前の行に「みんな無事です」と大きく太い字が書かれていたが、無数の線で消されていた。それにシオリも気がついた。
「マサルの家族、誰か怪我でもしたの?」
「怪我いうても、昨日、オヤジが…」
 そう言えば、みんな無事なわけがない。地震がきっかけで流産した姉や胎児のまま死んだオレの両親の孫…忘れていたわけではないが、オレの意識の中では怪我や死を別個に考えていた。
「いや、ちょっと、いろいろあってな。シオリにはあとで話すわ」
 そう言いながら、勝手口のノブを引こうとしたがドアは開かない。 オレはポケットから鍵を取り出し、勝手口を開けた。
「土足のままでええわ。とにかく、家ん中、何が落ちてるかわからへんから」
 初めてシオリを…いや、生まれて初めて「彼女」を実家に招き入れる瞬間だ。
「なんだか怖い。お化け屋敷みたい」
 シオリが語るオレの実家の第一印象だ。停電で夕暮れ。奥へ行けば行くほど暗くなる。お化け屋敷という言葉に、オレは朝、全壊したアパートから大野さんと一緒に掘りだした血塗れの見るも無惨な死体を思い浮べてしまった。ハッキリ言って、オレも怖かった。不謹慎だがリラックスするために冗談でも飛ばしたい気分だったが、そう思えば思うほど、あの死体が目の前に転がっていそうな気がする。
 オレはシオリの肩をギュッと抱きしめた。それはシオリを守ってやろうという意味ではなく、オレの恐怖感を和らげようとして抱きしめたのだ。暗闇の廊下で肩を抱きしめられたシオリは、何も驚かなかった。それどころかオレの胴にしがみつくように、手を回し、横からオレの胸に顔を寄せてきた。シオリも怖いのだろうか。
 オレたちは無言のまま、手探りで座敷へ進んだ。
「そや、いっぺん蛍光灯つけてみよか」
 軽い冗談のつもりで蛍光灯のヒモを引っ張ると、なんと点灯したのだ。
「キャア」
 同時にシオリは叫んだ。
 室内の様子が、久しぶりに文明の光に包まれた。その光景はオレでも叫びたくなるような光景である。朝、オヤジと大きな物は適当に片付けたが、昨夜、オカンがひとりで寝ていた布団や、その周りで無造作に散らかっている衣服や本、人形は、つい数秒前まで誰かがそこにいたかのような、リアリズムを醸し出している。もちろん、誰もいるはずがない。
「改めて見るとすごいなぁ」
「怖い…」
「怖いか」
「うん…」
「どないする。避難所へ行くか」
「それはイヤ。あんなところ行きたくない」
 そうだろう。オレよりも先に避難所生活を数時間体験したシオリにとって「あんなところ」にわざわざ行きたくもないだろう。
「あたしたちの寝るところだけでも片付けよ。ネッ」
 シオリからそんな言葉が出てくるとは期待していなかったが、オレもシオリの意見に賛成だ。その瞬間…
「わっ」
 余震だ。ガタガタと建物が鳴動する。灯っていた蛍光灯も消えた。 オレはシオリをさらに強く抱きしめた。
 このシチュエーションは、オレが夢の中でときどき思い描いていた妄想だったが、皮肉にも地震という恐怖体験で実現してしまった。気持ちがいいのか悪いのか…。そんな感触に浸っているうちに余震は治まった。
 しかし、停電は直らなかった。
 シオリは肩を震わせている。
「そうや。車や、車の中で寝よ」
「…うん」
 ここで生活してもいいのだが、いつ、大きな余震が襲ってくるかわからない。寝ているあいだに、建物が崩れるかもしれない。シオリをかばうようにして、外へ出た。
 オレの車は軽自動車なので、二人が寝るには窮屈だが背に腹は変えられない。
 昨日、シオリを乗せて須磨海岸まで走った、その車は近くのガレージに止めてあるが、ガレージの手前に、オレと大野さんが死体を掘りだした全壊アパートがある。しかも、その死体を無造作に安置した道路を通らなければならない。
「また、あそこ、通るんか。いややなぁ」
 そう思いながらも、早足に、その地点を通過した。もちろん道路に安置した死体はなくなっていた。
 ガレージにたどり着くと、昨日は、なかったテントが一番奥の空きスペースに組まれていた。水色のビニールシートと潰れた建物から拾ってきた板切れなどでテントを組んだためか、見た目は悪いが、ロウソクの明かりで酒盛りをしているような、楽しそうな声が聞こえた。まるで季節はずれのキャンプファイヤーである。
 オレの車はガレージの出入口のすぐ右脇のスペースにあり、そこまで行けなかったが、車の扉を開ける音で、テントの中の人間にオレたち存在が気付かれてしまった。
「あれっ、朝方のボンやんか」
 テントの前に一升ビンを手にした大野さんが出てきた。
「何してるんですか」
「あぁ。ボンが手伝ってくれたアパートから助けだされた人のために、そこらにあった物で避難所作ったんや。ボンも来るか」
 大野さんは酔っ払っていた。朝、オレと一緒に犬死に同然の死体を見ておきながら、よく、酒を飲んで盛り上がれるものだ。
「その娘が彼女か。助かったんやな。お祝いや。こっちに来いや」
 シオリの顔は引きつっていた。
「な、なんなの、あの人」
「近所の知り合いなんや。ちょっと顔出してくるわ。シオリは車の中におり」
「うん」
 シオリは助手席に座り、オレを眼で追い掛けていた。
「こんばんは」
 テントの中には大野さんのほか五人の男女がいた。年代もさまざまで、オレより二〜三歳ぐらい年上の男がいるかと思えば、お婆さんもいる。
「この人ら、みんな、あのアパートの人たちや」
 大野さん以外は、生き埋めから着の身着のまま助けだされたはずなのに、みんな洗濯されたトレーナーや作業着を着込み、その上から薄汚れた毛布を羽織っている。
「ここで何してるんですか? みんな小学校へは行かないんですか」  細面の中年女性がオレの投げ掛けた疑問に答えてくれた。
「小学校に行ったんやけど。ものすごい人でねぇ。それに崩れた家から物を盗む火事場泥棒みたいなんが出るっていうから、みんな、ここに戻って来たんや。大野さんに頼んで、このテント作ってもらってん。ついでに服も貸してもらったし」
 大野さんは笑った。
「なんや。姉ちゃん、こっちに来んのか。もうすぐしたらオレらの仲間が食べ物もってくるから、ここに居ればええのに」
「彼女も疲れているみたいで…」
「そうか。食べ物来たら持っていったり」
「いいえ、さっき避難所でパンをもらったんで…それより、こんなところに、テントなんか張っていいんですか」
「ええ、ええ。ここは、このお婆ちゃんの土地や。あのアパートもそうや」
 大野さんは、この辺りでは珍しい、品のよさそうなお婆さんを指差した。オレもこのガレージを使わせてもらっているが、もともとオヤジが昔からここに車を止めていた関係で、今もずっとオヤジがガレージの賃借料を支払っている。そのため、オレは地主に会うのは初めてだった。
 そのお婆さんは、オレの顔を見て軽く頭を下げたので、オレも会釈した。
 顔に表情はなかったが、地主独特の意地汚い無愛想でもなく、どことなく虚ろげな顔をしていた。

12・生と死の間

三宮日本生命ビル 「今朝、ボンと一緒に掘りだした女の子は、このお婆ちゃんのお孫さんなんやて」
 大野さんは真剣な顔に変わった。
「あの子、去年の春から、長田の娘さん夫婦の家を出て、お婆ちゃんのアパートで一人暮らしをしてたんやけどなぁ…話を聞いたところによると、去年の春に専門学校を卒業してから『一人暮らしをしたい』言うて、家、飛び出したんやて。岡本で美容師してたらしいわ」
「家族は今日のこと知ってるんでしょうか」
 オレの問いかけに、お婆さんは朴訥と答えてくれた。
「娘の家へも、そのことを知らせようと思たんですけど、電話がつながらんで…」
「そうですか…」
 お婆さんの娘夫婦、つまりその女性のご両親は、今も娘の死亡を知らないということになる。そういえば、オレも姉のことが気にかかる。義兄はあの後、姉に会っているが、姉は失神していたため何も告げずに、オレたちを家まで送ってくれた。
 考えているうちに、無性に気になりだしたので、オレはテントを離れ、車の中にいるシオリにも「電話をかけてくる」と告げてガレージを出ようとした。
「電話だったら、ここにあるわよ」
 シオリは後部座席に放り投げていたカバンから携帯電話を取り出して、オレに手渡した。オレの仕事は携帯電話を使うことがないため、かけ方を知らない。シオリに頼んで、義兄の家の電話番号をダイヤルしてもらった。
 しかし、呼び出し音が義兄の電話を何度も鳴らし続けるが一向に出る気配はない。
「仕方がない」
 電話を切ってもらった。
「どこに電話したの。もしかして、あたし以外のオンナ」
 ひとりで車の中にいたため退屈したのか、完全ではないがいつものシオリ節が復活しつつある。
「いや、姉ちゃんの家や」
 そう言えばシオリに、姉夫婦の話はまだしていない。今後、オレの身に何が起こるのか、わからないので、とりあえずシオリに今朝、姉夫婦に起こった出来事を掻い摘んで説明することにした。
 今まで、電話だけだった遠距離交際の時のシオリだったら、オレの真剣な話でも、しょうもない横槍を入れて、話の腰を折ったものだが、車という密室の中で、二人きりになり、オレが、その話をしているとき、シオリは相づちを打ちながら真剣に聞き入ってくれた。 「それは、女性としてつらいわよねぇ…」
 この話に関して、シオリは、この一言以外は何も語らなかった。 外は、すっかり不気味な暗黒が支配している。依然と続く停電の影響で街灯もついていない。光といえるのは、天に霞む満月と、車窓から見える大野さんたちのテントから漏れるロウソクの灯りぐらいだった。
 オレたちは、この薄明りの車内で、ずっとポケットに入れっぱなしだったパンと牛乳で、この日唯一の食事をとった。
 男だったら、密室の車の中で夜、彼女と二人きりになれば、カーセックスとまではいかずとも、なんらかのアクションを起こしていただろうが、とても、そんな気分にはなれない。
「そや、ラジオつけよ」
 食事が終わると、オレはシオリに宣言するようにカーステレオの電源をいれた。
「…六時四十五分に警察庁がまとめた兵庫県南部地震の犠牲者は1131人。行方不明者は依然として822人いますが兵庫県警によると、これら数字は今後も増える可能性があるということです…」
 ラジオは、オレたちにそう告げた。
「シオリは、家族に、連絡したんか」
 ラジオの声でそのことに気がついた。シオリにも家族がいる。
「うん。避難所から実家に電話したの。あたしが無事だってわかったから安心してた」
「そうか」
 ラジオは死亡者名簿を読み始める。
 その間、オレは今朝からのオレの行動を振り返ってみることにした。
 姉の一件の後、家に戻ってくると、シオリからSOSの電話が入った。すぐにシオリの救出に向かおうとしたが、その時、島崎さんはオレを強引に近所の全壊したアパートでの救出活動へ連れ出した。
 そこでは大野さんと救出活動をしたのだが、若い女性の死体を掘り出したため、余計、シオリのことが気掛かりになった。大野さんの許しを得たものの、生き埋めになった人たちを目の前にして、シオリの救出に向かったのは人間として正しいかったのだろうか。 今のオレの頭で、その答は導きだせない。
 この時点でシオリは生きていたとしても、一方で死ぬ可能性も考えられた。「街中総危険地帯」の状況でレスキュー隊が救出にくるとは考えられにくい。結果としてシオリは無事救出されるが、目の前の生死不明で生き埋めの人たちを掘り起こすのがよかったのか、シオリを救出するのがよかったのか…。
「オレはシオリを愛している」
 こう考えれば、オレの今日の行為は、すべて理にかなっている。 シオリに最大限、誠意を払ったつもりだったが、シオリが出張先で大地震に遭っているのに、シオリの家族の心配は、まったく頭になかったではないか。
 愛は盲目とはよく言ったものだが…。
 すると、ラジオから聞き覚えのある名前が飛び込んできた。
「今『松浦サトコ』って言わんかったか」
 オレは慌ててシオリに確認を求めた。
「あたし、そんなこと言ってないわよ。もしかして、そのサトコって昔の彼女?」
「違う違う。今ラジオで…。オレの親友の彼女の名前なんやけど…ほら、去年、オレと一緒におったタカシっていう奴の彼女なんや」
「ホントに、そうなの。でも、ホントはあなたの昔の彼女なんでしょ」
「違うんや。そのサトコいうのは、今、タカシと信州へスキーに行ってるんや。それで明日帰ってくることになってるんやけど…」
 「サトコ」について、オレは必死に説明した。
「へぇ。そうなの。あたし、知らない」
 シオリは聞く耳を持っていなかった。それもそのはずだ。シオリの神戸の知り合いといえばオレしかいないし、まして死者の名前などに興味はない。
 オレだけが慌てているところに、大野さんがノックしてきた。
 オレは窓を開けた。
「お楽しみのとこ邪魔して、すまんなぁ。トイレのことやけど、この辺、みんな断水してるんや。もしお嬢さんが、したくなったら、ワシのマンションのトイレ使ってええで。風呂の水が残ってるから、それで流したらええわ」
「あの、オレもトイレ使ってええやろ」
「男は、その辺で済ませられるやろ」
「そんな無茶な。ションベンはできても、大きいのは抵抗があるわ」
「ハハハ…。ワシのマンションはあのマンションや。1階の103号室」
 大野さんは、全壊したアパートの向こうに建つマンションを指差した。その方向をシオリも眼で追うが何も見えないみたいだ。街灯がついていないのだから、見えないのは仕方ない。オレは近所なので、大体の場所はわかる。
「シオリがしたくなったら、オレもついて行くわ。真っ暗で危ないし」
 大野さんはニヤッと笑って横槍を入れた。
「言うとくけど、エッチはでけへんで。ワシの部屋、今、怪我人が二人ほど寝込んでるんや。ホンマは病院で寝てもらったらええんけど、病院、いっぱいらしいからな。それにワンルームやから、エッチできる部屋もないで」
 恥ずかしさのあまり、小さくなったシオリをよそに大野さんは、そのマンションへ向かった。中にいる怪我人に食糧を届けるためだろう。
「そうか!」
「まさか、発情したんじゃないでしょうね」
「いや、ちょっと、考え事してたんや」
 そうなのだ。オレがシオリを救出するために、あのアパートの瓦礫の山から飛び出したとき、大野さんは「ワシの手伝い」と言って、オレを送り出してくれた。その時の大野さんの立場で考えれば生死不明の人を助けることも大事だが、確実に生存が確認できているシオリを生かして救助することも、人命優先を考えれば大切なことだ。要するに大野さんは「生きている者」を救うことに全力を上げ、死体を掘り起こすことは、その次と考えていたに違いない。あの死体を見て、大野さんは救出活動に絶望したのかも知れない。もし、あの死体の彼女が息をしていたなら、救出途中で立ち去ろうとするオレを引き止めただろう。
 大野さんの行動をオレなりに理解できたとき、あのアパートで何人の人が助けだされたのだろうか?…という疑問が浮かんできた。大野さんがテントに戻るのを見計らって、オレは車から飛び出した。 テントの中の人数は増えていた。大野さんの仲間たちも、ロウソクの火を囲んでいる。
「どないしたんや。ボン。マンション、鍵かかっとったか」
「いや、そうやないんですけど。オレ、あの後のことが気になって…」
「あの後ってなんや」
「だから、今日、あのアパートから生き埋めの人を探してたでしょ。みんな助かったんかなぁと思って」
「あぁ、お姉ちゃんを掘りだした後に、骨折した人を二人助けて、昼すぎに…もうひとり男の人やったけど、この人は死んでたな。無事助かったんは、この三人と、今はここにおらんけど、もうひとり男の人が無事やった。それで怪我人はオレの部屋におる二人や」
 指折り数えながら言った。その後、家主のお婆さんが、さらに詳しく状況を説明してくれた。あのアパートは八部屋あり一部屋に一人ずつ住んでいた。道路側に住んでいた二人が圧死、もう二人は骨折。地震直後、潰れながらも比較的、原型をとどめていた奥の部屋に住んでいた人は、お婆さんを含めて四人。全員が早いうちに無事救出されたという。
 お婆さんがいたあたりは、余震の度に屋根が沈み、オレが駆けつけた頃には完全に崩壊したらしい。
 話をしている最中、外でクラクションが二回鳴った。
 テントを出ると、シオリが手招きをしているのが、かすかながらわかった。
「どないしたんや」
「トイレに行きたいんだけど、連れてって」
 普段、こんなことを言おうものなら、オレは「おまえは子供か」とツッコミを入れていたところだが、周囲は真っ暗なので一人で行かせるわけにもいかない。
 シオリは、オレの体に寄り添ってきたので、オレはシオリの肩を強く抱き、大野さんの部屋を目指した。
 ドアは開いていた。
「怪しい者ではありません。大野さんの紹介で…」
 オレが先頭になり、まるで、どこかの会社訪問に行ったかのように呟きながら、靴を脱ぎ中へ入った。
 真っ暗で、よく見えないが、奥から、いびきが聞こえる。
「困ったなぁ。どこがトイレやろ」
 眼が慣れるのを待った。手はスイッチを感知したが、パチパチさせたところで明かりは灯らない。
「あっ。ここかなぁ」
 シオリがドアノブのようなものを見つけたようだ。
「入ってみぃ」
 少し、眼が慣れ、ユニットバスらしき物がボンヤリと見えてきた。
「あそこに便器がある。オレ、外で待っとくから」
「いやっ。あたしから離れないで。怖い」
「怖がりやなぁ」
「今、一人になると、すごく怖いの。ホテルで一人で寝てたら、あんな大きな地震があったでしょ…」
 シオリは便座に腰をかけて、ズボンをおろしながら、喋っているみたいだ。ガサゴソと音がする。
「おまえ、もしかして、ズボン脱いでるんとちゃうか」
「だって、早くしないと、怖いんだもん」
「あのなぁ。ここに男がおるんやで。オレがここを出てからゆっくりとすればええやないか」
「マサル、あたしの体を知っているじゃない。恥ずかしくないけど、怖いだけなの」
 その言葉にドキッとした。思い起こせば一年前、シオリとスキーを楽しんだ最後の日に、シオリの部屋で、そのような行為をしたことを思い出したからだ。
「ゆ…言うとくけど、オレ、女のトイレ姿なんか見る趣味ないで」
「この暗がりなら、見たくても見えないでしょ」
 小声とはいえ、言い争いをしている場合ではない。オレたちは他人の家のトイレを拝借している。しかも、怪我をして寝ている人がいる。もし、オレたちの他愛ない会話で起こしては失礼であるし、この状況で、あまりにも不謹慎な話題だ。
 それにもまして女性の小用の音はうるさかった。
 シオリに続いて、オレも一応、用を済ますことにした。オレが小用をしている間、シオリも至近距離にいた。密室に二人きりでいると、つい一年前を思い出してしまう。オレは自制のためにも、はやる気持ちと一物を押さえて、小用に専念することにした。
 男女が同室でトイレにいると、さすがに大便は出てこない。
 用が終わると、つい、癖でタンクのレバーを引いたが、水は出るはずがない。シオリが浴槽の淵に置いてあった洗面器を見つけてくれたので、それで冷え切った風呂の残り湯を便器に流した。
「おじゃましました…」
 車に戻るとオレたちは示し合わせて後部座席に座った。
「あたし、眠たくなっちゃった」
 シオリは、ゴロンとオレの肩にもたれかかり静かに眼を閉じた。
「オレもなんか疲れたワ」
 シオリの肩に手を回し、オレもいつのまにか眼を閉じていた。まだ夜の八時だというのに…。
一九九五年、この一年間に神戸で観測された有感地震は202回。このうち一月十七日だけで観測された有感地震は本震を含めて61回あったという。この日の有感地震回数は、オレが生まれた日から、大地震の前日までに神戸で観測された有感地震の回数に匹敵するらしい。オレも、この一日だけで、それ相当のいろいろな経験をしたように思う。

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※写真は『阪神大震災・神戸からの報告書』(データハウス刊・菊地 馨著)63頁に掲載した写真です。

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