連載小説1997年8月15日
 明日の大地へ〜第5節、第6節

◆目次◆

5・斜塔の孤独

6・不協和音の鼓動

(全33節)


5・斜塔の孤独

倒壊した線路  不運にもシオリが泊まっていたビジネスホテルは、今朝の大地震で建物自体が傾いていた。宿泊客は少なかったものの、五階建てビルの四階に泊まっているシオリは、大地震発生から三時間たった今も、傾いた建物から脱出できずにいた。一度は脱出を試みたが、エレベーターはおろか、階段も壁面が崩れ落ち、その瓦礫が段を埋めていたため失敗に終わっている。
 下の階の宿泊客は、早々と窓から脱出しているようだ。それだけではない、従業員も逃げたみたいだ。
 シオリは狂ったように窓の外へ救助を求め続けた。
「助けてっ。誰か助けてーっ」
 ホテルの周りは、近所の見物人でごったがえしていたが、誰もシオリを助けようとはしない。しかし見物人は、ただ傍観しているわけではなかった。助けるにも助ける手立てがなかったのだ。ホテルの入り口は完全に崩壊しているし、裏の鉄骨製の非常階段も建物からはずれている。
「おーい。頑張れよー」
 ときどき、見物人の中から、シオリの絶叫に返事する者もいたが、これほど「頑張れ」という言葉が無責任で無意味な言葉だったと感じたことはない。言葉の世界で生きるシオリの言語野で、虚しく「頑張れよー」がこだました。
「頑張れって掛け声かけてるヒマがあったら、あなたが、あたしを助けるのに頑張ったらどうなの」
「あの姉ちゃん元気やな。ハハハハ」
 その中年男は笑いながらどこかへ立ち去った。シオリとその男のやり取りを聞いていた見物人の中からも、静かな笑いがまき起こった。湿った笑いだった。ラジオもなく、テレビも停電で使いものにならない。情報から隔絶された人びとにとって、シオリの言動はちょっとした漫談のように聞こえているようだった。
 周りには屋根が落ちて全壊している建物も多くあった。そういった家の住人は、どこからか借りてきたスコップで、瓦礫を取りのぞき、日用品や貴重品などを掘りだすのに懸命である。
 キョロキョロしているうちにシオリは「いったい、ここに集まっている人たちは何者なの」と考えるようになった。
「覚えてらっしゃい。あんたたちのこと、どこかで書いてやるから!」
 何時間も野次馬たちに絶叫していたためか、建物の崩壊による粉塵のせいなのか、シオリの声はかすれつつあった。そこに携帯電話のベルが鳴った。
「何よ、こんな時に」
 天井が剥がれ落ち、その瓦礫が床を覆いつくしている。建物が傾き、停電もしているので、跪きながら手探りでベルの鳴る方へ歩んだ。そして、瓦礫を取りのぞき、地震で落下したカバンの中から鳴り続ける携帯電話を取り出した。
「石井君。石井シオリ君だね」
「なんなのよ。そうよ」
 気持ちが高ぶっているシオリは、ヒステリックに電話の向こうへ返答した。電話の向こうの男はシオリよりも遥かに年上の中年男性である。しかもシオリが初めて聞く声だ。
「無事だったかい」
「無事って、あなた。あたしのこの状況を見て、どこが無事だというの」
「えっ、怪我でもしてるのかい」
「怪我はしてないけど、ホテルの連中とか、近所の奴らなんか、あたしを助けだそうともしないのよ。ずっと、あたし、傾いたホテルに閉じこめられてるんだから。誰だか知らないけど、助けに来て」
「なんか、すごいことになってるんだねぇ。申し遅れましたが、私、東京の金閣出版の星山といいます」
「えっ」
 シオリは血の気が引いた。金閣出版といえば、日本有数の大手出版社である。ここで出版している週刊誌や漫画雑誌は、毎週数百万部も売れ、そこから売れっ子の作家を続々と排出している。シオリには無縁の出版社で一行たりとも仕事の依頼などきたことがない。「あ、失礼しました。わ、私、石井シオリです」
「いやいや、そんなことはないよ。『はるの出版』の高崎君から、今、キミが神戸にいると聞いてね、電話をかけたんだよ。来週発売の『週刊ゴールド』に連載で、キミの地震レポートを載せたいと思ってるんだけど、どうだろうね」
 話を聞いてみると、シオリが連載している旅行雑誌の出版社に、金閣出版から地震発生当時、神戸にいたライターを探している…という連絡が入り、そこからシオリを紹介してもらったという。しかも、金閣出版のドル箱であり、日本一の発行部数を誇る週刊誌『週刊ゴールド』に、地震体験のルポルタージュを連載で書いてほしいというのだ。
「あ、あの、あたしでよければ…」
 同年代のOLやフリーターと比べて、実入りが少なかったシオリには、まさに朗報だった。連載一回あたり原稿料も『はるの出版』の倍は出すと言っている。好評ならば単行本にまとめたいとまで言ってきた。
 さらに原稿は書かなくても、この携帯電話で逐一連絡を入れるだけで、出版社側が原稿におこしてくれるというから、こんなに楽で儲かる仕事はない。もしかすると半年後は夢の印税生活かも…現状への不満からか、その反動からか、頭の中はいいことしか考えられず、シオリはふたつ返事で快諾した。早速、地震発生から、先程の中年男とのやりとりまでを星山にぶちまけた。
 途中、何度も余震が襲い、ホテルの建物は、その都度、ギシギシと音をがなりたて、天井から瓦礫の雨を降りそそがせていたが、それでも、シオリは舞い上がり、感情のおもむくまま、携帯電話に言いたいことをぶつけた。
 そして電話を切った。
「しまった」
 シオリは心の中でつぶやいた。いくら原稿料が倍だからといって、ここから脱出しなければ何にもならない。命がないことには、原稿料だ、印税生活だとは言ってられない。
 電話をカバンにしまう時、ふと、スケジュール帳が目に入った。
「そうだ。マサルに助けてもらおう」
 再び携帯電話を握り締めたシオリは、マサルの家の電話番号をプッシュした。一度目はつながらなかったが、二度目は話し中の信号が鳴り響いた。
 マサルと電話で遠距離交際を続けていたシオリがマサルの家の番号を暗記していてもおかしくないのだが、自宅の電話は短縮ダイヤルで登録しているため、正確には覚えていなかった。この携帯電話は出版社からの借り物なので短縮登録はしていない。
 何度もシオリはマサルとのコンタクトにチャレンジしたが、単調な話し中の信号音だけがシオリの鼓膜を揺さ振り続けた。

6・二台の車

 雪道を走るタカシたちの車は長野県を脱出し、岐阜県へさしかかった。県境のためかラジオも電波状態がよくなく、聞き辛い。
「大丈夫かなぁ。大丈夫かなぁ」
 サトコは、小刻みに身を震わせている。
「そんなに心配せんでも、きっと大丈夫や」
「でも、でも、ここのラジオ局でも、こんなに大げさに神戸の話ばかりしているんだから神戸では、もっと凄いことになってるんじゃ…」
「もう、何も考えんとこ」
 そのうち、スピーカーはザーというノイズを伝えるだけとなった。
「くそっ」
 タカシも平静を装っていたが、内心焦っている様子が、その仕草やちょっとした言動から読み取れる。左手は必死にラジオのチューニングを試みた。
 こうして、かすかに捕らえたラジオの音は、アップテンポの流行歌だった。
「こんなときに」
 それは、サトコがときどきカラオケで唄っていた曲でもあったが、身内の安否も不明の状況で、こんなに明るい曲は耳障りのなにものでもない。皮肉なもので、だんだん、音もクリアに聞こえてくるではないか。
 曲が終わると地元の自動車販売会社、ディスカウントストアのコミカルなコマーシャルがスピーカーから流れた。
「もしかしたら、さっきのん。夢やったんかなぁ」
 サトコはタカシに、今日初めての笑顔を投げ掛けた。
「そうやったら、ええのに」
 タカシも、そう思った。二人は顔を見合わせると「夢ではない」と覚った。お互い、顔も洗っていなかったし髪も寝起きの状態だったからだ。普段ならお互いがお互いの顔を見られる状態ではなかったのだ。
 それに気付いたサトコは後部座席に放り投げていたハンドバッグから櫛とコンパクトを取出して、身形を整えだした。
「キミって可愛いね」
 タカシは雰囲気を変えようと、軽い冗談を飛ばした。いや、冗談ではなかった。緊迫した空気にサトコの、その仕草は何ともいえず、可愛らしく見えたのだ。
 だが、この雰囲気も、不粋なラジオにぶち壊されるのである。
「十時三十分になりました。ここからは東京のスタジオから全国放送でお届けします。今朝、近畿地方を襲った大地震の被害は、時間が経つにつれ状況が悪化しています」
「やっぱり」
 サトコはコンパクトをパチンと畳んで、ラジオに聞き入った。
「兵庫県知事はさきほど自衛隊に災害派遣を要請しました」
「気象庁は、今朝の地震を『平成七年兵庫県南部地震』と命名しました」
「現在、神戸市から大阪市の一部にかけて、約百万世帯が停電、断水している模様。大阪ガスも被害が大きかった地域を対象に都市ガスの供給停止を決めました」
「阪神高速道路の倒壊により、阪神間の高速道路は全線不通になっています…」
 断片的なラジオの放送は、感情が入っていない分、それだけ信憑性を帯びているように聞こえた。
「サトコ。覚悟しとけよ」
「えっ」
 サトコは息を詰まらせた。タカシの言った「覚悟」とは、最悪の事態を心配せよということなのだろうか。
 タカシはそんなつもりで「覚悟」という言葉を口走ったのではない。
「もしかしたら、今日中に神戸に帰れんかも知れん。さっきも言うたけど、そのときは、オレの実家に行くで」
「そんなぁ」
 焦るサトコ。身形を整えたサトコは、再び泣きそうな顔になった。タカシはサトコよりも泣きたかった。もっと早く、神戸へ飛んでいく手立てはないものか。朝見たテレビや、今聴いているラジオの情報を察すると、想像を絶する被害があったと推測できたからだ。 連休明けの火曜日ということもあって通行量の少ない高速道路を突っ走るアクセルに力が入る。
 ラジオは、さらに無機的に神戸の被害を伝えてきた。
「共同通信のまとめでは死者が二十三人。負傷者も十一府県で三百人を超えている模様です。神戸市長田区の神戸市立西市民病院では、建物の六階以上の部分が、五階を押しつぶし、入院患者や宿直の看護婦ら数十人が死亡、百人以上が負傷しているという未確認情報も入っています」……
「えらいことになってるなぁ」
 義兄は驚いた。
 後部座席にいたオレも、その驚きにつられて、助手席と運転席の間から、前方の光景を覗き見た。
「あのビルの前を通らなアカンのか」
 神戸市役所前の明治生命ビルの上半分が、今にも道路へ向かって倒れてきそうなぐらい傾いている。それでもほかの車は否応なく、その建物の前を通り過する。オレたちの車も例外ではない。市役所の建物も上の部分が下の階に落ち込んでいる。その斜向かいにある国際会館も今にも崩れてきそうなぐらい崩壊している。
 ポートアイランドでは壁に亀裂が入った建物は多かったが、崩れたり、倒壊したり、傾いたりした建物は見たかぎり一軒もなかった。ここがポートアイランドから遠く離れているわけではなく、距離にして1キロぐらいの所の光景だから驚愕である。
 そして中間階が崩壊している交通センタービルを前に見ながら、建物に縦の亀裂が走るそごう百貨店前の交差点を右折した。
 繁華街から住宅密集地に入れば、もっとひどかった。軒並み屋根が落ち、建物が傾いている。歩道には人があふれ、中には毛布にくるまって横たわっている人もいる。そのときは、怪我をして寝かされているのだろうと思っていたが、それは死体だったらしい。あまりにも無造作で、まるでゴミのように放り出されていた。
 運転している義兄は、そんな阿鼻叫喚の地獄絵図のような景色を見続けるどころではなかった。信号が停電で機能しないため、交差点に差し掛ると横から来る車や対向車を交わすように走り抜けなければならない。ハッキリといって無法地帯である。交差点ごとにクラクションが大きく響き渡る。とりわけ生田川の交差点を過ぎてからは、電話の呼び出し音を聴き続けているオヤジが交差点ごとに窓を開けて「じゃかましい」と怒鳴りだした。
 その横顔は眼帯をしているが、仁王像のような厳しい形相だった。 これがよかったのか。左から来る車はオレたちの車が通り抜ける間、止まってくれた。
 オヤジの短気なのは知っているが、こんなに恐ろしい顔は初めて見た。
 そのオヤジが「こんな非常事態に警察や消防は何しとんや」とぼやきだした頃、タイミング悪く警察署が見えてきた。前には人だかりができている。すぐ東には消防署も見える。消防車や救急車はすべて出払っていたが、ここにも人が殺到している。それよりもなにも、消防署の屋上にあるはずのコンクリート製の塔が折れ、道路に真逆様に落下しているではないか。
「オヤジ、もうすぐやから、電話切ったらどうや」
「そやけど、誰も出てこんのや」
 こんな会話をしているうちに車は、自宅の勝手口が見えるところまでやってきていた。
 建物は残っていたがモルタルの壁はほとんどひび割れし、ところどころで濁った色の木造の骨組みが露になっていた。瓦もかなり落下している。前にはその瓦や壁の破片が土砂となって積もっていた。 車は、その上を静かに停止した。

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※写真は『阪神大震災・神戸からの報告書』(データハウス刊・菊地 馨著)109頁に掲載した写真です。

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