連載小説1997年4月15日
 明日の大地へ〜第1節、第2節

◆目次◆

1・連休の過ごし方

2・不協和音の鼓動

(全33節)


1・連休の過ごし方

 去年の今頃は、学生生活の最後ということもあって、親友のタカシとスキーに行ったのだが、社会人一年目でいきなり地獄のような忙しさを体験すると、あの頃が懐かしく思えてくる。
 あの頃…オレたちは東京から来た女の子のグループと同じホテルに泊まり合わせることになり、初日の夜は合コンで盛り上がった。そこで、オレはフリーのライターをしているシオリと仲良くなり、今でも彼女とは週に二、三度、電話のやりとりで薄っぺらい遠距離恋愛を育んでいる。
 ところが、その時の合コンで失敗したタカシは、雪辱を晴らすかのごとく、就職先のデパートで知り合ったサトコと、休暇を利用して、昨日から信州でスキーを楽しんでいるではないか。
 それにひきかえ、今年のオレは、どうだろう…。
 オレの実家は神戸の下町で今時流行らない、写真館を一家総出で営んでいるのだが、普段は暇をもてあましているのに、昨日は晴れ着に身を包んだ二十歳の娘さんが大挙して押し寄せた。
 使い捨てカメラがある時代に、なぜ、こんな時だけ写真館で撮ってもらいたがるのだろうか。
 タカシは「晴れ着の女に囲まれて仕事ができて羨ましいなぁ」と捨て台詞を残し、スキーへ旅立ったが、いくら写真館とはいえ一人一人をじっくりと観賞したり、話を楽しむ時間は全くないのだ。おまけに親子同伴で来る女性がほとんどなのに…。
 人間万事塞翁が馬…とはよく言ったものである。
 しかし正月に詣でた生田神社の女神は、忙しいオレにも、ちゃんと快楽を授けてくれた。
 昨日から、シオリが旅行雑誌の取材で、一週間ほど神戸に滞在しているのだ。
 そして、今日、一年ぶりの再会を祝って、シオリと北野町の洒落たレストランでブランチをともにしたのだが…。
「午前中だけのデートって、つまらない。なんとかならないの」
「昨日は成人の日やったやろ。それで、店にたくさん二十歳の女の客が来てな…」
「まさか、あたしが、わざわざ東京から来てるのに、その二十歳のオンナと何か約束してるんじゃないでしょうね!」
「違う違う」
 オレは口に含んだレモンティーで咽せそうになった。
「彼女らを撮ったフィルムを昼からオヤジと一緒に現像することになってるんや」
「そんなの今なら機械でできるじゃない。ほら、よく一時間で現像しますって言う写真屋さんがあるし。そこへフィルムを持っていけば、簡単にできるんでしょ」
「オヤジは頑固者やからなぁ。ときどき酔っ払うと言うんや。『手焼きには手焼きの色がある。機械なんかに任せられるか』って」
「へえ、そうなの。お煎餅を焼いているみたいね」
 シオリは微笑むと、テーブルの中央にあるバゲットを手に取った。
「あんな堅い頭やから、あの店、儲からへんねん。今年の春から、店の経営をオレに任せるって言うてるんやけど…あんな自転車操業の店、任せられてもなあ…。ホンマはオレ、弁護士になりたくて、苦労して法学部に進んだのに、結局、無駄な努力やったなあ…」
 サラダを頬張る手を休めた。
「ちょっと、一年ぶりの再会なのに、落ち込まないでよ」
「ああ、悪かった。この瞬間を楽しく過ごさなあかんな…」
 シオリの顔から笑顔が消えた。
「あたしと、こうしているのが、楽しくないの?」
「い…いや。そうやないけど」
 二人は黙って食事に専念した。気まずい間である。
 電話で百回は喋っているのに、顔を突き合わせて話すと、なぜ仕事の愚痴をこぼしてしまうのだろう。ここで雰囲気を変えないと。
「あっ、そうや。今日一日、神戸の街を案内しよか」
「でも、マサルは昼から仕事なんでしょ」
「ええの、ええの。ちょっとオヤジに電話してくるわ。オレの夢を奪った仕返しや!」
 朝から暗くなった場を和ませようと、オレは満面の笑顔を作って、席を立った。
 電話の向こうではオヤジが怒りを爆発させていたが「季節はずれの七夕みたいなデートやから」という無茶苦茶な理由をつけて、半ば強引に許しを得た。
「あのアホは…」
 テレフォンカードが出てくる発信音に紛れて、オヤジのつぶやきが聞こえてきそうだった。
「昨日、新幹線で神戸に着いたとき、そのまま異人館街を取材したの。だから、ほかのお洒落なところを案内してほしいわ」
「それやったら旧居留地とか海岸通りに行ってみよか」
 オヤジがオレの「就職祝い」に買ってくれた軽自動車にシオリを乗せると、曇天で霞む街を南へ向けて発進した。
 旧居留地は神戸開港の時に外国の貿易会社が建ち並んだ一帯で、現在は市役所をはじめ銀行などの高層ビルが建ち並ぶオフィス街に変貌している。
 日本最初の花時計、官公庁のビルでは東京都庁の次に高い神戸市役所一号館、昭和十年に建てられた銀行のビルを、そのまま利用している市立博物館……。
 車の中からの見物ではあったが、シオリは「ヘぇ」「はぁ」と何とも頼りない返事をしながら、こんな時のためにガイドブックを暗記したオレの情報をメモしていった。
「あのガラス張りのビルに取り囲まれた二階建ての建物は、明治時代の建物らしいで。今はレストランになってるんや」
「わぁ。可愛らしい。今朝はあのお店で食べればよかった」
「じゃあ、次のデートは、あそこで食べよ」
 車は国道2号線に出る。海岸通りだ。
 海岸通りは大正時代から昭和初期に建てられたお洒落で重厚なビルが今も、そのままの姿を残す通りである。
「角に建っている外国の建物みたいなのが商船三井ビル。大正十一年に建てられたビルらしいけど、今でもテナントビルとして使われてるんや」
「この辺りって、ガラス張りの近代的なビルの間に、堂々とレトロ調のビルが建っているから、その対比が面白いわね。カメラ持ってくればよかった」
「コンビニで使い捨てカメラでも買ってこよか」
「雑誌に載せる写真が使い捨てカメラで撮った写真なんて…。まだ六日ほど神戸にいるから、また、連れてきてよ」
「ええで」
 車はポートタワーを左手に見ながら、ハーバーランドを横切る。
「ところでさぁ、前に『火垂るの墓』っていうアニメ映画を見たのよ。その話の冒頭に神戸の大空襲の話が出てくるんだけど、どうして、古い建物が、こんなに、たくさん残ってるのかしら」
 突然、何が言いたいのだ…。
「それはアニメやから、大空襲で街が焼きつくされた話にしとると違うか」
「でも野坂昭如の戦争体験を盛り込んだ話だから、嘘でもないと思うのよ。話の中では、その空襲で親を亡くした子供たちが焼け野原になった神戸から逃げるんだけど、都市部に古い建物が残っているのが、何となく不思議なのよ。京都とか奈良は空襲がなかったらしいから、古い建物が残っているのは納得できるんだけど…」
 手帳を見ながら、彼女の疑問は続いた。
「えっと、たとえば風見鶏の館が明治四十二年、萌黄の館が明治三十六年に建てられたんだって」
「異人館は何度か改修工事をしてるから、あんまり建築年代は関係ないと思うけどなぁ。それに、萌黄の館は五、六年ぐらい前まで『白い異人館』っていう名前で公開されてたんやで。老朽化で改修したときに、建築当時の外壁の色が萌黄色やったというのが、わかって、今の色になったらしいからなぁ」
「あたしが東京生まれの東京育ちで、こんな仕事をしているから余計、不思議に思うのかしら…東京の由緒ある寺や古い建物は戦後に建て直されたものがほとんどなのよ」
「ふーん」
「だいたい東京には、大正時代より前の建物なんかないわよ。関東大震災で壊れたり、焼けたりして…」
「戦争のことは、よう、わからんけど、神戸で大きな地震はないで。聞いたことないもんなぁ」
 気の向くままに車は兵庫、長田の工場群の間を走っている。
「地震いうたら京都にいたころを思い出すなあ」
「どうして?」
「学生時代、京都のボロアパートに下宿してたんやけど、京都は二、三か月に一回は地震があるんよ。それが気持ち悪くてな」
「マサルは地震が怖いんだ」
「怖いというか、気持ち悪いねんけどな」
 気がつくと、いつのまにか須磨海岸にやってきていた。
 冬の海は、たとえ内海の大阪湾とはいえ、少し荒れている。しかも冬の海を訪れる者は、ほとんどいない。
「ま、仕事の話は、ちょっとの間、忘れよ。季節はずれやけど海岸を散歩しよ。海でも見て頭の中カラッポにしよ」
「そうね」
 オレはジャンパーを、シオリはワインレッドの暖かそうなコートを後部座席から取って、車から出た。
 海から吹きつける冷たい潮風。
 シオリはコートのポケットから黄色い手袋を取出し、自分の手にはめた。
 そして、数メートル先に歩きだしていたオレの背後からべったりと風下へしがみついてくる。
 ここでは、ガイドブックの受け売りではなく、オレの思い出をシオリに語ることにした。たとえば、子供の頃、家族で海水浴に行ったとき、便意を催したが、こらえきれず、思わず海中でパンツをずらして大便をしてしまったことや、学生時代はタカシと一緒に、海の家のバイトに励み、組合の取り決めで禁止されていた駅での客引きをして、ヤクザ風の男にボコボコにされたことなど…ほとんど恥の書き捨てのような思い出を吐露した。
「あなたには、呆れるわ」
 そんな表情を時折、見せながら、シオリはニコニコ笑って聞きいってくれた。それが嬉しかった。自分の恥みたいな話を、ただただ聞いてくれるだけで、オレは幸せな気分になる。電話だけでは味わえない心地よさだ。
 久しぶりにシオリの顔を見たためか、曇り空のためなのか、時間の感覚が、もうひとつわからない。
 腕時計は持っているが、うっとうしいので、いつもジャンパーの左ポケットにつっこんでいる。ポケットから時計を取り出すと、すでに三時を過ぎていた。
「ホンマは、三宮から西だけやなくって、東側。たとえば灘の酒蔵とか面白いところがあったんやけど、今からではちょっと無理やな」
「話には聞いたことはあったけど、一度、酒蔵の街並を歩いてみたいわ。あたしの母方のお祖父さんが新潟で酒造会社をやってたから、短大の卒論に日本酒のことを書いたのよ。だから、とっても興味があるわ」
「まだ若いのに、日本酒に詳しいんか…それやったら、お酒はワインよりも日本酒なんや」
「と思うでしょ。実はあたし、お酒は全く飲めくて…スキーの時、ずっと烏龍茶を飲んでたの、覚えてるでしょ」
 シオリは、海からのふきっさらしの風の寒さと照れで、色白の頬が少し赤くなっていた。まるで酔っ払っているように見える。
 帰りの車の中で、お互いの仕事が早く片付いたら、酒蔵へ行こうと約束を交わしてシオリをホテルへ送った。
 現像定着液の酢酸臭い自宅へ帰ったのは五時半ごろだった。もう少しシオリといたかったが、オヤジのこともあったので、早めにデートを切り上げた。次の約束のためにも早く仕事を片付けないと…。
「ほんまに、おまえとゆう奴は…忙しいときに遊びやがって…」
 オヤジはブツブツと呟きながら、オレを暗室の中へ招き入れた。
 数をこなすため、現像液は、普段よりも多くパッドに満たされている。引き伸ばし機で焼き付けた印画紙を入れると、液がパッドから流れ出していた。
 六時半ごろだろうか。暗室がドンドンと縦に二、三回、揺れた。
「ん?」
 同時に現像液のパッドを覗き込んでいたオヤジが叫びだした。
「マ、マサル〜」
 オヤジは、目を押さえてその場にうずくまり、子供のように叫んだ。その叫び声は段々と大声になっていく。オレは突然の出来事に、どうしていいのか、わからない。
「どないしたんや」
「現像液が眼に入った。染みる〜。たまらんー。何しとる。医者や、救急車を呼べ!」
 オヤジは喚きながらも手探りで蛇口を探しもとめ、目を水で注ごうとした。
 焼きかけの写真や遮光袋から開けたままの印画紙などを放って暗室の蛍光灯をつけた。そして座敷で洗濯物を畳んでいたオカンに119番をするように伝えると、オレは唸っているオヤジの肩を抱き、勝手口まで連れていった。
 家は消防署から近いこともあって、すぐに救急車がやってきた。 オヤジの主治医の眼医者は振替休日のため休診だったし、電話番号も知らなかったので、救急隊員に事情を説明し、適当な病院へ連れていってほしいと頼んだ。救急隊員は付き添いを要請してきたので、とりあえずオレが右目を押さえて横たわるオヤジと一緒に救急車に乗りこんだ。
 担ぎ込まれたのは神戸港沖の人工島・ポートアイランドにある市民病院だった。
 医者によると最悪、失明の危機だったが、処置が早かったため、そこまでは至らなかった…という。それからオヤジは眼帯をして診察室を出てきた。
 ところが、家へ帰ろうとしたとき、オレもオヤジも財布を持ち合わせていなかったことに気がついた。帰りの電車賃がないのだ。救急車でここまで来たため車もない。
 病院の時計は、すでに八時を指している。
 窓から病院前の大きな道路を眺めたものの、連休二日目の夜ということも手伝って、タクシーはおろか、何も走っていないのである。 仕方なく通りかかった看護婦に十円玉を借り、公衆電話から、この島に住んでいる姉夫婦の家へ電話した。
 オカンに連絡して車で迎えにきてくれと言ってもいいのだが、運のないときは、とことんついていない。オカンは車の免許を持っていなかった。
「お姉ちゃんか。オレや。マサルや。ちょっとオヤジがドジって、救急車で市民病院に担ぎこまれたんやけど、帰る金がないんや。お姉ちゃんとこの車、貸してくれんやろか。救急車で担ぎこまれたいうても、現像液が目に入っただけやから心配ないで」
 突然の電話に姉は戸惑っていたが、なんとか快諾してくれた。
 姉夫婦は病院から歩いて五分ぐらいのところにある高層マンションの七階に住んでいる。姉の旦那さんはスポーツ用品会社の企画研究者で、一流スポーツ選手の運動靴などの設計をしている。
 姉夫婦に子供はいなかったが、現在、姉はご懐妊中で七か月め。今年の春には、念願の第一子を産む予定である。
「お義父さん。大変でしたねぇ。さぁさぁ。ノリコに何か作らせますから。マサル君も上がって」
 姉夫婦の家で最初に出迎えてくれたのは、姉の旦那、つまりオレの義兄だった。
 義兄は、突然やってきたオレたちを、綺麗に片付けられたテーブルのあるダイニングルームへ招き入れてくれた。
「もう今日は遅いですから、お義父さんもマサル君も、ここに泊まっていってくださいよ。明日、ボクの出勤の時に、ご自宅へお送りしますから…」
 オヤジは少し、ためらった。
「いや、しかし。吉田君。突然来て泊めてもらうわけには…。このドラ息子と一緒に帰るから」
「まぁまぁ。せっかくですから泊まっていってくださいよ。明日、明るくなったら帰ればいいじゃないですか」
 オレは電話を借りて、オカンに経過を報告した。
 電話が終わるのとタイミングを合わせるように、姉は急ごしらえの惣菜と、燗にした酒を持ってきた。
 オレたちは、せっかくの御相伴に預かり、その御厚意のお返しとして、オヤジのドジを詳しく解説することにした。
「さっき、六時半ごろに地震があったでしょう。それで現像液が眼に入ってしもて…機械を入れるとか、どこかのDPEに出すとかすれば、こんなことにならなかったんやけど…」
 すると姉夫婦は揃って怪訝そうな顔をした。
「地震?」
「地震なんかあったかなぁ。六時半ごろでしょ」
「その頃、テレビでニュースを見てたけど、地震のニュースはやってなかったなぁ」
「確かに揺れたなぁ。マサル」
「そうや、そうや。オレも感じたで。縦に揺れたけど…」
「近くでダンプカーでも走ってたんでしょう。お義父さんところは建物が古いから…」

2・不協和音の鼓動

倒壊したビル  気がつくと、オレは和室でオヤジと一緒に寝かされていた。
 酒は弱いほうではないのに、日本酒という普段飲み慣れない酒を飲んだためか、トイレへ行くときも歩むごとに頭がガンガンする。 トイレを出て、リビングの掛け時計を見ると夜光塗料の針が朝の五時四十五分を指していた。冬の早朝というのに、寒いという感覚が全くない。
「こらアカン。二日酔いや」
 辺りはまだ真っ暗だった。人体というものは偉いもので、頭はガンガンしながらも眼はパッチリと起きつつある。暗順応というのか。真っ暗闇でも、部屋がボンヤリと見えてくるではないか。
 起きるには、まだ早い時間なので、もう一眠りすることにした。 だが、布団に潜った瞬間。

ゴォォォォー。
ドドドォォォン。
グラッグラッ…。

「なんやなんや。もしかして夢か」
 寝床が、いや部屋全体が何者かに強く揺すられている。
 オヤジが「な、なんや。何が起きてるんや」と悲鳴とも、つぶやきともとれるような、ゴニョゴニョした口調で叫んでいる。
 揺れは、さらに強くなった。
 オヤジを助けるどころではない。オレの体も宙に舞い上がったかと思うと、すぐに敷き布団に叩きつけられる。動けないのだ。金縛りではない。オレはとっさに眼の下まで布団をかぶった。
 天井の蛍光灯が大きく揺れているのか見えた。揺れているというものではない。今にもコードがちぎれて、落ちてきそうなぐらい、蛍光灯が天井を叩きつけている。間もなくして、洋服ダンス、本棚がオレたちに襲いかかってきた。
「マサル何をするんじゃ。ワシになんか恨みでもあるんか」
 寝呆けているのか、訳の分からないオヤジの叫びもかき消されるほど、窓ガラスや食器、建物の軋み…あちらこちらから聞こえてくる絶叫…今まで体験したことのないような振動が不協和音を奏でた。
「オ、オヤジ〜。地震や。地震」
 オレは必死でオヤジに返事をした。このあと、オヤジは「ワシのことはどうでもええ。おまえだけは助かってくれ」と言ったように思う。
 急転直下。驚天動地。天変地異……。
 何もかもが、そう運動していた。
 そして、揺れは治まった。
 オレは、洋服ダンス、本棚、そこから漏れ出た衣服や本に埋もれていた。
 それらから抜け出すと、眼前に別世界が広がっていた。
「とにかくオヤジや」
 無数の本の山をかきわけ、オヤジの顔を見た。
「マサル〜」
 眼帯をしていなかった左眼は涙を浮かべていた。真っ暗な部屋でも、そこまでハッキリと見えたような気がした。幸い、二人とも怪我はしていないようだ。オヤジを本の山から掘り起こすと、隣の部屋にいる臨月の姉の存在に気がついた。
「姉ちゃん…」
 襖を開けると、姉は寝ている状態で、お腹を押さえながら唸るように泣いていた。その嗚咽は文字で表現できないような声である。
「はぁ、はぁ、ノリコは今の地震で、はぁ…倒れてきた整理タンスが、はぁ、はぁ…お腹に当たったみたいなんや…はぁ、はぁ…」
 息を切らせる義兄。姉夫婦の寝室もオレたちが寝ていた部屋と同じぐらい色々なものが散乱していた。ちょうど姉の腹を直撃したタンスは、テレビショッピングに出てくるような段重ねの整理ダンスだった。そのタンスは、何事もなかったかのように姉の横で鎮座している。
「義兄さん。とにかく119番や」
 オレは八歳年上の義兄を指差し、命令するように言った。
 義兄は、うなだれた首を左右に二度振った。
「どないしたんや。このままでは姉ちゃんが可哀相や。あんた、姉ちゃんが好きで結婚したんやろ。なんで、こんなときに助けられへんのや。お腹にはあんたの子供もおるんやろ」
 散乱した部屋でへたり込む義兄をオレは恫喝した。
「電話が通じんのや。どうすればええんや!」
 普段はおとなしい義兄もオレに突っ掛からんばかりに怒鳴ってきた。怒鳴ったというよりは泣きだしそうな声で訴えた。それ以上に姉のうなり声が響く。義兄の手にはしっかりと無音の受話器が握り締められていた。
「マサル。ノリコを担いで病院まで行け」
 冷静になったオヤジを見て、オレも我に帰った。あんなものすごい揺れで、オレもオヤジをかばうことはできなかった。自分の命だけを守ろうとしていたオレが、義兄を怒鳴りつける資格はない。義兄も必死だったのだろう。
「そうや。姉さんをおぶって行くから、手伝って」
 義兄は泣き続ける姉を散乱した家財道具、日用品の中から大事に抱え、オレの背中に背負わせた。身篭もった腹のためか手に不思議な重心を感じる。
 オレは一目散にドアへ走った。ノブを回すがドアは開かない。
「クソッ、こんなときに」
 ノブをガチャガチャと鳴らした。その音で我に返ったのか、姉が「鍵…鍵が掛かってる」と、かすれた声でオレの耳元にささやいた。 姉の言うとおりロックを解除したが、それでもドアは開かない。 その後、オヤジが二、三回、ドアを蹴飛ばしてくれたおかげで、なんとか扉は開かれたが、姉はその音に怯え、オレの背中で、音に合わせるように小刻みに体を震わせた。
 そして義兄は、こう忠告した。
「しんどいけど、階段を使え。エレベーターは多分使えん。ボクもついていく。疲れたら交代しよう」
 ドアを蹴ったオヤジを残して、義兄とオレは階段をかけ下りた。非常灯も廊下の照明も消えていて、真っ暗だったが、今思うと、よく足を踏みはずさずに階段を下りることができたな…と感心する。 五時五十分、神戸震度4、マグニチュード4・9。五時五十三分、神戸震度4、マグニチュード5・1…大きな余震が何度となく襲ってきたにも関わらず…。
 階段を一段一段駆け下りるごとに、姉は唸り声をあげた。臨月の腹に、かなりの衝撃を与えているのだろう。しかし、そんなことよりも急ぐことが先決だ。オレはそう判断していたから、姉に構わず、駆け足で、しかも一段ずつ飛ばして階段を下り続けた。
 下へ行くほど、マンションの住民であふれていた。オレは自分のことしか頭になかったから「急患なんや、道をあけてくれ」と声を荒げた。義兄も後から姉に「大丈夫か。悪かったなぁ」と謝っているようだ。雰囲気でしか分からなかったが、姉は唸り声をあげながらも、嬉しそうだった。
 やっと地面にたどりついたかと思うと、オレは裸足で外に出ていることに気がついた。義兄もそうだ。なぜ、それがわかったのか…。地面が濡れていた…いや、足の甲の高さまで水がたまっていたのだ。
「津波が来たんか」
 義兄は呟いた。津波だろうがなんだろうが、今、オレは姉と、これから生まれる新しい命を背負っている。
「交代しようか」
「いや、このまま市民病院まで突っ走る」
「無理は禁物や」
「大丈夫。義兄さんは姉ちゃんを励ましてやって」
 なぜだか、わからないが浸水した道をザバザバ音をたてながら市民病院まで突っ走った。道というよりも、この島には存在しないはずの巨大な川の中を走っているようだった。
 病院の前は、すでに人でごったがえしていた。宿直の先生だろうか、風邪のとき、患者の喉を見るのに使う細いペンライトを看護婦に持たせ、怪我人を治療する者や真っ暗な病院の玄関口に、無造作に寝かせられた急患たち…。
 夜明け前と停電で、外と病院の建物との境目がハッキリとわからない。耳に覆いかぶさるような患者の呻き声の響き方から、辛うじて建物の中だということがわかる程度だ。
 そんな建物の中を義兄は手当たり次第に右往左往する医者や看護婦に診察をお願いしていったが、一向に捕まる気配はなかった。
 子供の泣き声、男の太い唸り声、女の悲鳴。夜中のジャングルに放りこまれたかのように、不気味な合唱が辺りを渦巻く。
 その中を、ひとりの男が義兄の顔を懐中電灯で照らした。
「吉田さんじゃないですか。どないしたんです。さっきの地震で奥さんに、なんかあったんですか」
 声のする方向に眼を凝らしていた義兄は、しばらくしてその男が誰だかわかったようだ。
「先生ー。ノリコが、ノリコが…」
 冷静さを取り戻していた義兄が、また泣きそうな声で、その男に飛びついた。彼は姉の診察を担当している産婦人科の先生だった。 先生は四階の真っ暗な手術室らしきところへ、オレたちを案内してくれた。
「下の騒ぎを見ても分かると思うんですけど、空いている部屋がここしかなくてねぇ。たぶん、これから続々と怪我人が運ばれてきますから、ここも長いこと居られないとは思いますが…とにかく診てみましょう」
 先生は妙に落ち着いている。懐中電灯を胸のポケットにさし、おもむろに聴診器を取り出した。そして、姉のパジャマのボタンを開ける…。
 この場は義兄に任せて、オレは姉夫婦のマンションへ戻ることにした。着の身着のまま飛び出してきた姉夫婦に履物や上着を届けなくてはならない。
 そのころ、義兄の家にとり残されたオヤジは、義兄が先程まで握り締めていた電話を何度も自宅へかけ続けていた。しかし受話器の向こうは全くの無音である。
 家は大丈夫だろうか、妻は無事だろうか…。後にオヤジは、こんなもどかしい思いをしたことはなかったという。
 リビングの時計は六時半を差していた。あの地震らしき大きな揺れが五時四十五分ごろとすれば、あと十五分で一時間である。
 空も少し明るんできた。オヤジは気を落ち着かせるため、電話口を離れ、部屋中に散らばる本や洋服、小物、本棚やタンスをかきわけながら東のバルコニーのカーテンを開けた。
 東のバルコニーは、林立する高層団地に視界を遮られ、決して眺めはよくないのだが、明らかに団地の向こう側、つまり神戸市街地の方向から無数の黒い煙が天へ昇っていく光景を見せつけていた。
「家は燃えてないやろか」
 昨日、病院に担ぎ込まれたとき、暗室に可燃性の現像液がパッドに満たされたままだったことを思い出した。
 そこに、泥だらけの足で、文字どおり土足のオレが部屋に入ってきた。
「マサル〜。タミコは大丈夫やろか」
 オヤジは、オレが言葉を発しようとする直前に泣きついてきた。
「電話、通じんのか」
「電話だけやない。電気もつかんのや。水道も止まっとる。ワシ歩いて帰るわ」
「何ゆうてるねん。なんでか、よう、わからんけど、道は今ぬかるんでる。義兄さんは津波が来たって言うてるで。こんなときに出歩いたら危険や」
 オレとオヤジは向き会ったまま、言葉を失った。
「そや、ラジオ、なかったか」
「そんなもん見つける暇なんかあるかい。家が燃えてるかも知らんねんど」
「オレもオカンが気になるけど、なんか情報を仕入れんことには…。それより、姉ちゃんたちに履物と上着を持って行かなあかんねん。ラジオがどこにあるか聞いてくるから、ここを動くなよ」
 オレは、今まで寝ていた布団のシーツを失敬して足の泥を拭うと、倒れていた洋服ダンスからコートを物色し、そして玄関に埋もれていた自分の靴を履き、下駄箱から適当に姉夫婦の靴を持って病院へ向かった。
 冷たい病院の階段を四階まで駆け上がると、手術室の前で大きくうなだれ、冷たい廊下に座り込んでいる義兄が眼に飛び込んできた。
「義兄さん。どないしたんや。姉ちゃんは大丈夫か。これ、持って来たで」
 義兄はオレの顔を見上げたが、コートも靴も受け取ろうとはしなかった。
 そして、蚊の泣くような声で、義兄はオレがここを飛び出してからのことを喋りはじめた。
「先生が聴診器からはお腹の子供の心臓の鼓動が聞こえんて…。もしかしたら、赤ちゃんは死んでるかもしれん。あきらめろて言うたんや。機械が使えたら、もっと詳しくわかるんやけど、停電で機械を使うことができんので、今からお腹の子供を取り出すんやて」
「取り出すって…赤ちゃんをか…」
「そうや。もし胎児が死んでた場合、このまま放置してたらノリコも危ないらしい。先生もゆうとった。『こんなつらいことはない』て…。機械が停電で使えん間、待つことは許されんのやて…」
「死んでた場合って…。オレ、何のために必死の思いをしてここまで運んできたんや」
 オレも廊下に座りこんだ。
 義兄はオレの右肩をたたきながら、つぶやいた。
「けど、先生な、万が一、生きてる場合も考えて帝王切開で執刀するらしいわ」
 手術室からは、これまで聞いたこともない、苦痛にあえぐ姉の声が響いた。
 長く続く、姉の絶える声は、聞くオレたちの腹をもメスでつんざくように響きわたった。
 とても平常心では聞くに絶えないが、オレたちは、じっと、土下座をするような恰好で手術室に頭を垂れ続けた。


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※写真は『阪神大震災・神戸からの報告書』(データハウス刊・菊地 馨著)33頁に掲載した写真です。

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