沖縄の島守~「島田叡氏顕彰碑」を見に行く。

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那覇の自宅から徒歩10分以内のところに郷土の偉人の顕彰碑が建立されたことは、神戸っ子の私としても、とても誇らしいことである。

島田叡氏顕彰碑・正面

昨日=6月26日は沖縄で「島守」として敬われている沖縄戦時下の沖縄県知事・島田叡(あきら)氏の命日とされる。沖縄戦から70年の今年、那覇市奥武山公園に「島田叡氏顕彰碑」が建立され、翁長沖縄県知事をはじめ、島田氏の出身地から井戸兵庫県知事、久元神戸市長らが参加して除幕式が行われた。島田氏を顕彰するモニュメントは沖縄県内では「終焉の地」とされる糸満市摩文仁の「島守の塔」に続くもの。

顕彰碑だけではなく、奥武山公園の多目的グラウンドを「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と名付け、島田氏の功績を記した「グラウンド碑」も建立されたが、この「グラウンド碑」については、すでに、当ブログでも紹介している通りである。

さて、この顕彰碑が那覇市奥武山公園内に建立された理由は、島田叡氏が学生野球のスター選手でもあったことに関連して、沖縄の野球の中心地であり、プロ野球公式戦も実施される「セルラースタジアム那覇」があり、また、かつて兵庫県民の募金で建設された「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」が奥武山公園にあったことにちなむ。

この記事では碑の四方に配された碑文も紹介する。(写真をクリックすると大きな写真をご覧いただけます)

「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」跡地の碑と島田叡氏顕彰碑

「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」跡地の碑と島田叡氏顕彰碑の位置関係。写真中央のグラウンドが「兵庫・沖縄友愛グラウンド」。今日は草野球が行われた。青いビニールシートは草野球チームが貼った日よけであり、日常的にあるものではない。すでにこの写真を撮影した11時の那覇の気温は31.3℃である。

グラウンド碑は、この写真では影に隠れて見ることはできないが、青いテントの左側に設置されている。

正面の碑文は下記の通り

《建立の詞》
一九四五年一月、島田叡(あきら)氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第二十七代縣知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。

 以来、五ヶ月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で 疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。

 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(四六九柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年四十三歳(兵庫県神戸市須磨区出身)

 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながったと思われます。一九四六年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園への夢を育み、大きな励みになりました。

 一九七二年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。

 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事跡を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
二〇一五年六月吉日 島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明

《碑の構想》
祈り(合掌)、命(命どぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)

島田叡氏顕彰碑・西側

写真左上に「グラウンド碑」も写り込んでいる。(写真をクリックすると大きな写真をご覧いただけます)

西側の碑には島田氏が沖縄赴任直前に書いた直筆の「断」の文字と沖縄戦で収容所に向かう避難民の写真が掲示されている。

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(『史記』李斯列伝より)
"断じて行えば鬼神もこれを避く"
...意を決して敢然と行えば、鬼神でさえもその勢いを避ける...

○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」
(沖縄赴任に携行した愛蔵書)

「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや、誰か行って死んでくれとは言えない。」

○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか...という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地になることの必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)

「極限の沖縄戦のなかで『生きろ!』」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ...。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。

「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

島田叡氏顕彰碑・南側

南東側の碑文。島田の生誕の地・須磨と、終焉の地・糸満市摩文仁を詠んだ詩。「北へ」は沖縄戦では「ひめゆり学徒隊」の引率教官も務めた言語学者・仲宗根政善氏(1907~1995)の詩。「南へ」は島田と同じ神戸二中の後輩で詩人の竹中郁氏(1904~1982)の詩。また碑には母校神戸二中(現・県立兵庫高校)の校庭にあるユーカリの樹と摩文仁の海岸の写真が焼き付けられている。

なお、竹中郁氏の詩は、母校である兵庫高校にある合掌の碑にも刻まれている。(写真をクリックすると大きな写真をご覧いただけます)

詩碑《追憶の詩》

北へ(須磨・兵庫県)
ふるさとの
いや果てみんと
摩文仁岳の
巌に立ちし
島守のかみ
(詠人 仲宗根政善)

南へ(摩文仁・沖縄県)
このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に
心の中に収めて
島田叡は沖縄に赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳近くで
かれもこれも砕け散った
(詠人 竹中郁)

島田叡氏顕彰碑・東側

兵庫・沖縄友愛グラウンド側の碑には、野球選手としての島田氏の功績が記されている。(写真をクリックすると大きな写真をご覧いただけます)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは障害、それを実行した」(三高野球部球友の回想)

「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部) 東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還を目指した。

○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。

「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に...島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和三九年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。

「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を祈念につけてもらえないだろうか」

島田叡氏顕彰碑・東側

顕彰碑の名を刻んだ石碑の裏。向こうには「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地の碑」、そしてその向こうには沖縄で唯一プロ野球の公式戦が開催される「セルラースタジアム那覇」。(写真をクリックすると大きな写真をご覧いただけます)

  • 奥武山公園 (兵庫・沖縄友愛グラウンド、島田叡氏顕彰碑)
    • アクセス:ゆいレール「奥武山公園」駅下車すぐ