「沖縄の島守」を忘れるな!

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沖縄県知事島田叡・沖縄県警察部長荒井退造 終焉之地

先日、沖縄県立博物館・美術館へ行って来た。興味深い特別展がある際には、その都度、足を運んでいるのだが、これまで「常設展示」をゆっくりと見たことがなかった。

沖縄県の自然、民俗、歴史を豊富な資料で解説してくれる展示群は、ふらっと立ち寄るには内容が充実しすぎている。私は3時間も入り浸ってしまった。琉球王朝の展示は首里城の展示とあわせてみると理解が深まること間違いない。(十数年前、沖縄県立博物館は首里城の前にあったので、そういうことができたのだが...)

個人的に気になったのは沖縄県の歴史の展示。
私自身、沖縄出身者でもないし、沖縄に特別の思い入れがあるわけでもなく、成り行きで沖縄に住んでいるだけのような人間=私の個人的立場で見ると、17世紀以降の展示は「沖縄県外出身者(ナイチャー)は敵」のように映る。とりわけ明治以降の展示は官選沖縄県知事の「悪政」が強調された展示となっている。

※すべての官選(内務省が任命)の沖縄県知事は沖縄県外出身者である。

県立博物館関係者に最後の官選沖縄県知事・島田叡(あきら)を知っている人はいないのではないかと思うぐらい、県立博物館の展示には、島田の名前とその功績はなかった。

島田叡は沖縄戦の最中、沖縄県知事に就任。沖縄戦の混乱で県庁が解散するまでの約5ヶ月間、戦時下の沖縄県民の疎開政策と食糧不足対策に尽力した。

島田は私と同じ神戸市出身。1945年1月、内務省の命により、激戦の沖縄から"敵前逃亡"した泉守紀(いずみ しゅき)沖縄県知事に代わって沖縄に赴いた。

当時、大阪にいた島田は、この話を断ることもできる地位にいたが「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、神戸弁で沖縄県知事就任を即決したという。もちろんこれには妻子は猛反対。これまでの赴任先では一家そろって赴任先に移住したが、沖縄だけは単身赴任だった。

泉知事は、子供・女性・老人の疎開を勧めるよう軍から要請されていたにも関わらず、その要請を断り、そのくせ自分は米軍の沖縄上陸が近いことを知ると県外へ逃げてしまった。当時は泉知事に限らず、住民生活を守る立場であるはずの那覇市長や県会議員、本土出身の県庁職員らも、いろんな理由をつけて県外へ逃げてしまう状況だった。

知事が県外逃亡して県政が混乱していた沖縄で、県民の救済策を積極的に推し進めていたのが荒井退造沖縄県警察部長である。逃亡した知事よりも県民の立場で業務を遂行していた荒井のほうが話がわかるということもあって、県庁職員や軍関係者は本来警察とは無関係な知事の業務を荒井に持ってくる状況だったという。荒井がどれだけ県庁職員や軍部に信頼されていたかがわかる。

荒井は栃木県宇都宮市出身。泉知事と同じ時期に沖縄県に赴任した。荒井は警察部長(今の県警本部長)という重役ながら、戦時下の沖縄県民を思いやり、後に荒井の上司として赴任する島田と共に二人三脚で戦時下の県民の救済に当たった。2人が推し進めた疎開政策で沖縄戦を生き延びた沖縄県民は20万人に達する。この疎開政策の中には島田赴任前に起こった「対馬丸の悲劇」などもあるが、沖縄戦犠牲者が日米双方で約24万人であることを考えると、2人の行動は、悲観的に記録されることが多い沖縄戦の史実の中で、評価されるべきである。

島田と荒井は「沖縄の島守」として沖縄戦を知るウチナンチュから慕われている。糸満市の平和祈念公園には沖縄戦で犠牲となった県庁職員を慰霊する「島守の塔」があり、その塔を見守るように島田知事、荒井警察部長終焉の地の碑が建つ。(本稿冒頭の写真)

島守の塔と終焉の地の碑

島守の塔と、その後ろにたたずむ「沖縄県知事島田叡・沖縄県警察部長荒井退造 終焉之地」の碑。2013年6月15日撮影。当日、沖縄慰霊の日が近いこともあって島守の塔の前には仲井眞沖縄県知事と、井戸兵庫県知事をはじめ兵庫県関係者の献花があった。

「終焉」とはいうものの、島田知事、荒井警察部長の亡骸は現在も発見されていない。沖縄戦終結直前の1945年6月、壕で荒井は病に伏していたといわれ、島田はその荒井に付き添っていた様子が知られている。また同じ頃、島田は、偶然出会った同郷の17歳の兵士と、故郷・兵庫県の話に花を咲かせていたともいう。その後、島田が自決したという証言もあるが、証拠は見つかっていない。

県庁職員戦没者の碑

島守の塔の側にある殉職した県庁職員名を刻む碑。沖縄県の要職に就いていたとはいえ、トップで島田と荒井の名前が刻まれている。なお、この塔がある平和祈念公園には敵味方関係なく、沖縄戦で戦没した24万人の名を刻むモニュメント「平和の礎(いしじ)」がある。平和の礎には兵庫県出身の戦没者として嶋田叡(原文のママ)の名前が、1996年の追加刻銘者として栃木県出身の戦没者に荒井退造の名前が刻まれている。

島守の塔の石碑

島守の塔の前に建つ石碑。この石碑は、兵庫県、神戸市、兵庫県日高町(現在の豊岡市)から寄贈された。

なお「島守の塔」の隣には沖縄戦で犠牲となった栃木県出身者を慰霊する「栃木の塔」、裏には同じく兵庫県出身者を慰霊する「のじぎくの塔」がある。それぞれ荒井警察部長、島田知事の出身地であることはすでに述べたとおりである。

栃木の塔と島守の塔

写真左が栃木の塔、その隣(写真右)が島守の塔。

のじぎくの塔

兵庫県出身の戦没者を慰霊する「のじぎくの塔」。ここでも兵庫県関係者や神戸市長らの献花が並べられていた。「のじぎく」とは兵庫県花。沖縄県外出身者の慰霊塔で花の名前がついているのは「のじぎくの塔」だけ。島田知事の偉業とならんで、この塔のネーミングも、沖縄県民が兵庫県に対して好感を持つ理由のひとつと言われる。(献花されている花は普通の菊の花。沖縄県は菊の産地でもある)

人と自然、人と人、人と社会の共生をめざして

のじぎくの塔は戦後50年の1995年に改修されているが、この際、当時の兵庫県知事が戦没者に対して、改修の年に発生した阪神・淡路大震災で多くの犠牲者が出たことを報告した碑が設置されている。

沖縄県を除く都道府県出身者で兵庫県出身者は沖縄戦で2番目に犠牲者が多かった(3,201人)。1位は意外にも北海道出身者。なんと10,802人が遠い沖縄で犠牲となっている。

この2人の生き様は中公文庫『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』(田村洋三著)に詳しい。1945年6月当時、島田は43歳、荒井は44歳だった。今の私とほぼ同じ歳である。この歳にして、この本を知り、心から尊敬できる人を見つけたような気がする。

また、この本は沖縄戦の本としてだけではなく、リーダー論を学ぶ本として読むことも勧めたい。荒井は警察のトップ、島田は県のトップとして、どのように部下と接したか。緊急時に末端の職員までトップの指示を実行させるためには、いかに部下の信頼を得たかを学べるだろう。島田が赴任する前の荒井に至っては、自分と意を反する上司のもとで、いかに自分の信念を貫いたのか、そしてその苦悩も読み取れる。多くの40歳代は、それなりの社会的地位の高い人が多いのではないだろうか。そういう人に勧めたい1冊である。

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平和の礎

沖縄県平和祈念資料館の展望塔か平和の礎を望む。沖縄戦で追い詰められた住民が多く犠牲となり、沖縄の日本軍司令部が自決した沖縄本島南端・糸満市摩文仁(まぶに)にある。平和の礎の中心線は、沖縄戦の組織的戦闘が終わった6月23日の日の出の方向になるように設計され、中央には沖縄本島で採火した火と広島の「平和の灯」、長崎の「誓いの火」をあわせた「平和の火」が点る噴水がある。この噴水から見て左が県外出身者・米軍戦没者、右側が沖縄県出身者、併せて24万人分の名前が刻銘された碑が並ぶ。

本稿の島守の塔、栃木の塔、のじぎくの塔など平和祈念公園内の写真は、2013年06月15日に撮影。

ちなみに神戸市役所南にある、阪神・淡路大震災の神戸市民の犠牲者を慰霊する「慰霊と復興のモニュメント」は、この平和の礎を参考にしている。

[追記:2013年11月4日]
沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地 (那覇市奥武山公園内)

沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地

(以下記念碑から転載)
沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、日本復帰後の昭和50年(1975年)6月、兵庫県民から「友愛の証」として沖縄県に贈られた。
そして、沖縄県のスポーツの振興に寄与するとともに、兵庫県との友愛の象徴として中心的な役割を果たした。
沖縄・兵庫両県の友愛の絆が、より深く恒常的なものとなることを祈念し、ここに記念碑を建てる。平成21年3月 沖縄県教育委員会